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自主の会

JISHU NO KAI

日本の原子力行政の現状と課題
原子核工学研究者としての視点から

小出裕章
元京都大学原子炉実験所助教

1 原子力発電所の危険性について

京都大学原子炉実験所を定年退職

私は高校を1968年に卒業しました。当時は原子力に夢を抱き、大学は東北大学工学部原子核工学科というところをわざわざ選んで進学しました。

しかし、原子力について勉強していくうちに、これはおかしいと気付いてきました。そこで、自分の人生を180度反転させ、1970年からは、大きな事故が起きる前に原子力発電所を止めなければいけないと生きるようになりました。

東北大学の大学院を出るときには、いろいろ経緯がありましたが、京都大学原子炉実験所という職場の公募に応じて試験を受けました。そして京都大学の助手という教員として採用されることになりました。

京都大学原子炉実験所は、大阪府泉南郡熊取町という、もうすぐ和歌山県という場所に建っています。そこで41年間一度も昇進せずに、最後は名前だけ変わって「助教」という身分で2015年3月31日に定年退職しました。

松本市に移り住む

退職をした後、私は、住まいをどこにしようかと考えました。私が働いていた熊取町というところは猛烈に暑いところでした。大阪湾というのは、海からの熱気というか蒸気が漂っていて、暑いだけではなく蒸し暑い所です。私は暑いのが大の苦手だったので、退職後は暑いところではなくて涼しいところに行きたいと思いました。

また、私は東京生まれ東京育ちなのですが、1964年の東京オリンピックがあった時に、私の住んでいた上野浅草という昔の江戸情緒が残る下町が、ガラガラと変わっていきました。ビルがにょきにょきでき、道路には車が溢れ、高速道路が日本橋の上を走るというようになりました。こんな街は人が住む街ではないと、その時に思いました。それで大学に行くときも東北大学まで脱出しました。そのようなこともあって、私の連れ合いも東京生まれの東京育ちなのですが、東京には絶対に帰らないと決めていました。

東京のような大都会、大阪にしても名古屋にしても、絶対に行かないことも決めていました。私がいた東北大学は宮城県の仙台市にあります。私がいたころは「杜の都」と呼ばれていて、なかなか良い街だったので、いつか戻っても良いと思っていました。しかし、仙台に新幹線が通るようになったら、ミニ東京のような街になってしまいました。そのため、新幹線が通る街に戻らないと決めたのです。

それで涼しくて新幹線が通らないという条件で探しました。また、だんだん歳を取っていくと本当の田舎では、やはり生きていくことはできません。それで新幹線が通らない地方の小さな都会が良いと考えました。文化的な基盤があって、私は山が好きだったのでできれば山のある街が良い。そして温泉があればなお嬉しいというようなことで、だんだん絞っていったら松本市ということになりました。

菅谷昭・元松本市長との出会い

また、私が松本を選んだ最後の理由は、当時、菅谷昭さんが市長をやっていたことです。

菅谷さんは、1986年のチェルノブイリ原発事故の時に、信州大学のお医者さんでした。専門が甲状腺ということで、信州大学をすぐに退職して、退職金を持ってベラルーシまで飛んで行って、チェルノブイリの子どもたちの診察・治療をおこなった人です。

私も、ベラルーシのミンスクという街で菅谷さんと会ったりして、彼とそれなりのつながりがありました。彼が市長をやっているということは、彼を支える市民がいるということです。では私も彼を支える市民の一人になろうというそんな思いもあって、最終的に松本を選んで2015年の4月1日に松本にやってきて住んでいます。

原爆を心から憎む

私が中学・高校生のころですが、戦争後の米軍の支配が少しずつ解かれていきました。プレスコード(※戦後、GHQによっておこなわれた新聞などの報道機関を統制するための規制)なども無くなっていきました。それで「ヒロシマ・ナガサキ原爆展」などが日本のあちこちで開かれるようになりました。原爆の被害を国民に知らせることができるようになったのです。私は東京に住んでいましたので、東京で「ヒロシマ・ナガサキ原爆展」があるときには、たびたび見に行きました。そして原爆というのは本当にひどい武器だと実感しました。戦闘員を殺すのではないのです。非戦闘員を丸ごと、街ごと消してしまうのです。そういう兵器であるということで、私は心から原爆を憎みました。

例えば広島に落とされた原爆の場合、核分裂したウランの重量は800グラムだということを知りました。今ここに、私のために用意してくださったペットボトルの水はおよそ500グラムです。これとたいして変わらないくらいのウランが燃え核分裂したとたんに、広島・長崎という巨大な街が一瞬にして壊滅してしまうという、それほどの熱を出したわけです。

従来は火薬を使って爆弾にして街に落としたり兵士を殺したりしていました。しかし、原爆が使った原理は、従来の火薬化学反応を使うものとは全く違って、原子核反応を使ったものです。桁違いのエネルギーを発生するということが原爆によって示されました。私は、原爆を心から憎みました。しかし同時に、でもこういう形のエネルギーというのは平和的に使えば人類の役に立つとも信じ込んだのです。いずれ、化石燃料と呼ばれている石油にしても石炭にしてもなくなってしまう。そうなれば今の人類を支えるものは、この原子核エネルギーしかないと固く信じ、「私の夢を原子力にかける。原爆はいけないが平和的利用は良い」と思い込んでしまったのです。

膨大なウラン燃料を必要とする原子力発電所

ただし私が夢を追いかけた原子力発電所を運転しようとすると、こんにち標準的になっている100万キロワットの原子力発電所1基を1年間運転するだけで、1トンのウランを核分裂させるのです。ヒロシマ原爆では800グラムだったのに、原子力発電所1基が1年間運転する毎に1トンのウランを燃やさなければいけないのです。原爆1000発分以上のウランを燃やさなければ、私が夢をかけた原子力発電は動かないものだったのです。

そのことは二つ重要なことを意味しています。

一つは、原子力発電所は一つ一つが大量のウランを必要とするということです。私自身は化石燃料がなくなったら、未来のエネルギーは原子力、つまりウランだと思ったのですが、地殻中にあるウランは実は貧弱な資源です。そのウランを全部燃やしたとしても石油から得られるエネルギーの数分の一しかないのです。石炭から得られるエネルギーと比べれば、数十分の一です。元々原子力なんて未来のエネルギー源にならないという、そういうものだったのです。

もう一つはもっと大切なことです。一つの原子力発電所が一年運転する毎に、ヒロシマ原爆1000発分以上の核分裂生成物を生み出すということです。原子炉のなかに、核分裂生成物がどんどん溜まっていくのです。それほどの毒物を抱えているのが原子力発電所だったのです。事故がなければいいのかもしれませんが、原子力発電所は機械です。故障や事故から無縁な機械などありません。

また、原子力発電所を動かしているのは人間です。人間は神ではありません。必ず誤りを犯します。そうなれば原子力発電所だって、いつかは大きな事故を起こすだろうと、少なくとも、起こさないと保証することはできないと思いました。そうであれば、これは止めるしかないのだと思い至りました。それで私は1970年から自分の人生を反転させたのです。

都会で使う電力を過疎地の原発でまかなう非人間性

当時、私の周りは原子力を進める人ばかりでした。いわゆる「原子力ムラ」という言葉で表されるように、政治家も官僚も、電力会社、巨大ゼネコン等々全部が一丸となって「原子力の平和利用」を進めていました。マスコミもそうでした。広告宣伝会社も、膨大な費用をかけながら原子力の平和利用や原子力発電所だけは絶対に事故を起こしませんという宣伝を流してきたのです。

ただ、彼らにしても原子力発電所は機械なので、もしかしたら壊れることがあるかもしれないという心配はもっていました。そのため彼らが何をしたかというと、原子力発電所だけは都会に建てないという選択をしたのです。

日本では17ゕ所に57基の原子力発電所が建てられましたが、そのすべてが東京・大阪・名古屋という大都会からは離れた場所に建てられました。例えば事故を起こした東京電力福島第一原子力発電所は東北地方にあります。東北電力が電力の供給に責任を持っている場所です。そこに東京電力が原子力発電所を建てたのです。実は東京電力は3ゕ所に原子力発電所を持っていますが、すべて自らが電力供給の責任のない場所に建てました。福島県に事故を起こした「福島第一原発」とそのすぐ南に「福島第二原発」、さらに新潟県柏崎刈羽という所に「柏崎刈羽原発」を持っていました。すべて自分とは関係ないところに原子力発電所を追いやって動かすということをやってきたのです。

福島原発事故が起きたのは2011年3月11日ですが、そのとき東京電力はもう1ゕ所に原子力発電所を建てる計画をもっていました。それは青森県下北半島の最北端に近い東通村という所です。そこには東北電力の原子力発電所が1基だけ稼働していました。そこに今度は東京電力が原子力発電所を建てようとしていたのです。青森県下北半島の最北端から長大な送電線を引いて東京まで電力を送るという計画をもっていたのです。私は、それだけのことを考えても原子力発電所はやってはいけないと思います。 

電力の恩恵を受けるのは都会の人たちです。その都会の人たちは「危険は受け入れられない」と言って、危険だけを過疎地に押しつける。そういう選択をしたのです。そんな不公平で不公正なことは、ただそれだけの理由でやってはいけないと私は言ってきました。

なぜそのようなことにさえ日本人は気がつかないのでしょう。だれもが気がつかないというより知らんふりをしたまま、原子力発電所を過疎地に押しつけ、そして福島の事故に至ってしまいました。

福島原発事故後も原発の危険性を反省しない人々

事故が起きてしまって、私自身も「ああ、本当にこんな事故が起きるのだなあ」と、その悲惨さに心が痛みました。

原発を推進してきた人たちから見ると、「俺たちはこんなにしっかりやっているのだから、まさか事故は起きないだろう」と思っていたので事故が起きたことへの驚きは大きかったでしょう。万一が怖くて過疎地に押しつけたけれども、事故は多分起きないと高を括っていたのです。それは言ってみれば彼らの願望だったのです。科学的根拠はないけれど、事故は起きないでほしいという、そういう願望にもとづいてずっとやってきてしまって、事故になってしまったのです。

いい加減に気がつくべきだと思うのですが、ここに至っても彼らはまだ、原子力を進めると主張しています。いま止まっている発電所を再稼働させるとか、あわよくば新しいものを建てたいとか言っている人たちに出会って、本当に頭がおかしいとしか私には思えません。

2 福島第一原子力発電所事故とその後の状況

福島第一原子力発電所の事故の状況は大きく分けると二つあります。一つは敷地の中の原子力発電所そのものがどうなっているかということ。もう一つは敷地の外で住んでいる人たちがどうなってしまったのかという問題です。

発電を止めても原子炉の中の発熱は止まらない

まず敷地の中の原子力発電所そのものについてです。

例えば自動車に異常が起きれば、私たちは、すぐにブレーキを踏みます。そして、車が止まって、エンジンを切れば車自身はもう動くことができなくなります。

しかし原子力発電所はそうはいきません。発熱は止まらないのです。

原子力発電所の場合は何か事が起きれば制御棒を原子炉の中に挿入してウランの核分裂反応を止めます。それは比較的容易にできます。時々失敗することもありますが、かなり容易にできることです。ところがウランの核分裂反応を止めても原子炉の中の発熱は実は止まらないのです。なぜかというと、一旦原子力発電所を動かしてしまうと、前述したように一年間にヒロシマ原爆1000発分を優に超える核分裂生成物を生みだして原子炉の中に溜め込んでいるからです。核分裂生成物というのは放射性物質で、放射線を出しています。放射線というのはエネルギーの塊ですから、核分裂生成物が炉心の中にある限り熱を出し続けます。その量というのが運転前の発熱量の七%に相当しています。

今日、標準になっているのは100万キロワットの原子力発電所です。100万キロワットというのは実は電気になってくるのが100万キロワットであって、原子炉の中ではその3倍の熱が出ているのです。原子力発電というのは途方もなく効率の悪い発電装置なのです。つまり300万キロワット分の熱が出て100万キロワットだけが電気になって、200万キロワットは何にも使えないまま海に捨てているのです。海からすれば大迷惑なことです。

300万キロワット分の発熱をしていて、「大変だ。何か起きたぞ」といって核分裂の連鎖反応自身を止めたとしても、7%分、つまり21万キロワット分は止められないのです。

想像できるでしょうか。例えば家庭で電気ストーブや電気コンロを使うと、およそ1キロワットです。それが21万個分発熱を続けているということです。

福島原発は事故後も発熱を続けていた

福島原発事故時も、運転員は地震が起きた時、すぐに核分裂の連鎖反応は止めました。しかし、核分裂生成物自身が原子炉の中にあって発熱を続けていたために、どんどんどんどん炉心の温度が上がってしまいました。

ウランの燃料というのは2800度にならないと熔けません。2800度という温度を想像できるでしょうか。原子炉の中にあるウランの燃料は実は焼き物です。家庭で使っているお茶碗やお皿の瀬戸物と同じです。それに熱をかけて熔かすことはできるでしょうか。ガスコンロの上に瀬戸物を置いても熔けないし、焚火の中に放り込んでも熔けないと思います。2800度などという温度は通常の人には決して作ることができない猛烈な温度なのですが、簡単にその温度になってしまい、原子炉が熔けてしまったのです。

すべての電源を失い発熱を冷やすことができなくなった

福島原発事故では、なぜそんなにも簡単に高温になってしまったかというと、すべての電源が喪失したため冷やすためのポンプが作動できずに冷やすことができなくなってしまったからです。

はじめは、その核分裂生成物が出す熱(崩壊熱)を非常用炉心冷却装置で冷やしました。

原子力発電所は通常であれば自分が発電した電気でポンプでもなんでも動かすことはできます。しかし、地震に襲われて核分裂の連鎖反応を止めた途端に発電する能力が奪われてしまいます。その時には外部の送電線から電気をもらってポンプなどを動かします。通常はそうして冷やします。ところが福島原発事故の時にはその外部の送電線が巨大地震でひっくり返ってしまいました。そうなると外部からの電気も得られません。自分では発電できないし外部の電源も使えない。では、どうするのかというと、「そういう時には非常用の発電機がある。だからそれで発電すれば大丈夫だ」と彼らは言っていました。

しかし、福島原発事故では、一時間後に津波に襲われて、その最終手段の非常用発電機が水没してしまいました。そのため非常用発電機も電気を供給することはできなくなってしまったのです。つまりすべての電源が喪失したためポンプを回すことができない。そうなれば炉心はどんどんどんどん温度が上がって熔けてしまうという、言わばごくごく当たり前の経過をたどって炉心が熔け落ちてしまいました。

大量の放射性物質が大気中に放出される

当日1・2・3号機という3基の原子炉が動いていましたが、3基ともあえなく炉心が熔けてしまいました。その3基の炉心の中には、核分裂生成物が含まれていました。核分裂生成物とは普通「死の灰」と呼ぶものです。私は核分裂生成物と呼んでいますが、およそ200種類に及ぶ放射性物質の集合体です。

その中にはセシウム137、ストロンチウム90、ヨウ素131、ゼノン133というような様々な性質の違う放射性物質があります。私はそのうちで一番人間に危害を加えるのはセシウム137だと思っています。そのためいつも私は、福島の事故がどのくらいの規模だったのかを聞いていただくときには、セシウム137の量を尺度にして聞いていただくようにしてきました。

(環境省HPの説明 編集部)

セシウム137を尺度にして言うと、事故当日、3基の炉心のなかにはヒロシマ原爆がばらまいたセシウム137の7800発分が入っていました。そしてそれが熔け落ちてしまったのです。

国の言い分によると、熔け落ちた3月11日から3月末までの間に、ヒロシマ原爆168発分のセシウム137を大気中にばら撒いたということです。ヒロシマ原爆一発分の放射能ですら猛烈に恐ろしいものなのに、なんとその168発分を大気中にばら撒いてしまったと日本の国が言っているという、そういう事故だったのです。それによって東北地方・関東地方の広大な地域が猛烈な放射能汚染を受けてしまい、たくさんの人々が苦難の底に落とされてしまいました。

しかし、元々はヒロシマ原爆7800発分あったのです。そのうちの168発分が事故の直後に大気中にばら撒かれたと言っているわけですから、ほとんど大部分はまだまだ熔け落ちた炉心の中にあるのです。もちろんそれは放射性物質の塊ですから発熱しています。冷やし続けなければまた熔けてしまいます。そうしたらまた放射性物質が環境に出てきてしまう。とにかく何としても冷やし続けなければならないということで、あの事故からすでに10年以上経っていますが、ひたすら水をかけて冷やそうとし続けてきたのです。未だに、熔け落ちた炉心がどこにあるかは分かっていません。どんな状態になっているかももちろん分かりません。でも冷やし続けなくてはなりません。消えてなくなるわけではありませんから。

放射能汚染水の処理は

168発分は飛んでいったとしても残りはどこかにあります。それを冷やさなければならないということで、元々原子炉の炉心があったところに向けて水を入れ続けているのです。しかし、そのようなことをすれば、入れた水が放射能で汚れてしまうというのは当たり前のことです。この10年の間にどんどん放射能汚染水が増えてきて、今現在、約130万トンになってしまったということです。

その汚染水をどうしたらいいのかが問題です。東京電力は「放射能汚染水の中から放射性物質をとにかく捕まえて取り除きます」と言い、この間、その作業をなにがしかやってきました。「アルプス」という名前の装置で、とにかく水の中に入っている放射性物質を捕まえて水をきれいにしますという作業をずっとやってきました。

ところが今日に至っても何の解決にも至っていません。アルプスという装置は、実は、彼らが期待した通りには動いていないのです。130万トンのうち百十数万トンの水は処理したと東京電力は言っていますが、その中には、まだまだ取り切れない放射性物質が残っているのです。

放射性物質のトリチウムは取り除けない

一番問題なのはトリチウムという名前の放射性物質です。別名三重水素と呼んでいて、水素の同位体です。水素というのは、環境に出てきてしまえば酸素と結びついて水になってしまいます。トリチウムも水素ですから水になっています。東京電力が水の中から放射性物質を何とか捕まえて取り除こうとしてきたと言いましたが、トリチウムは水そのものなので、どんなに水をきれいにしたところでトリチウムは取れないのです。それで、その「処理水」と呼んできたトリチウムを含んだ放射能汚染水110万トンを薄めて海に流すと国が言い始めました。

110万トンの処理水の中には、実はトリチウム以外にもストロンチウム90とか、ヨウ素129とか、そういう放射性物質が、環境に流していいと法律で定められている濃度以上に存在しているのです。環境に流しても大丈夫だという濃度以下になっているのは28%しかありません。言ってみれば、ほとんど大部分は実は処理水ではなく放射能汚染水のままなのです。そしてトリチウムという絶対に取れない放射性物質が猛烈に濃い濃度で〝処理水〟と呼んでいる中に残っている、そういう状態になっています。

国と東京電力は、トリチウムはどうしようもないにしても、他の放射性物質はこれから再度アルプス等を動かして、国が決めている濃度限度を下回るまでは頑張りますと言っています。多分そうするしかないと思いますが、それをやってもトリチウムだけはどうにもならない、それはもうしょうがないから薄めて流すという、それが国の方針になっているのです。

トリチウムを福島の海に流してはいけない

トリチウムは放射能ですから、環境に流していいという道理はもともとありません。ですから福島県の漁業者もそうですし、日本の環境保護団体もそうですし、世界の人たちもトリチウムの汚染水を海に流してはいけないと言っています。

すでに東京電力は1000基も汚染水タンクを作って汚染水を入れていますが、もっとタンクを増設して汚染水を入れればいいという提案もあるのです。東京電力はもうタンクを作る場所がないと言っていますが、実はそれは嘘です。東京電力福島第一原子力発電所の敷地には熔け落ちてしまった1・2・3号機、そのほかに4・5・6号機という、当日定期検査で止まっていた原子炉があるのですが、その他に、7号機、8号機という原子炉を作ろうという計画がありました。従って、第一原子力発電所の敷地の北側に広大な敷地があるのです。そこにタンクを作るというのはもちろんできるし、これから後、10年持ちこたえるということだってできるのです。トリチウムというのは半減期が12~13年ですので、13年ほど長く閉じ込めておくことができれば、放射能の強度は半分に減ります。だからどんどんタンクを作って溜め続けろという意見があります。

もっと別な方法としては、地下に穴を掘っていって、地下に圧入してそこに溜めるというかなり技術的にはフィージビリティ(実現可能)がある方法もあります。またそのほかにモルタルとかセメントに固めてトリチウムが出ないようにするということを提案している人たちもいます。

ですから実際には、いろいろなことができるのです。

しかし、国としてはこれらの方法を絶対に採用しない理由があるのです。

トリチウムをすべて海に流すのが根本政策だった

福島原発事故が起きなかったら、原発の炉心にあった燃料、その中にあったトリチウムは一体どうなったのでしょうか。

日本では、原子力発電所の使用済み燃料というのは、すべて再処理するということが基本方針です。再処理するというのは、長崎に落とされた原爆の材料であるプルトニウム239というものをとにかく懐に入れたいという、そのための行為です。国は、工場で絶対にそれをやるとこれまで言ってきました。

それで国は、青森県六ケ所村に巨大な再処理工場を作ろうとしてきました。私は実はその再処理工場はまともに動かないと思っています。しかし国は、とにかく日本中の原発の使用済み燃料は青森県六ケ所村に作っている再処理工場に送り、そこで再処理をしてプルトニウム239を取り出すと言っています。そしてそのプルトニウム239を懐に入れるというのが日本の原子力政策の根本なのです。

その再処理の過程でトリチウムはどうなるかというと、全量が水の中に出てきて、それは六ケ所村から海に捨てるという計画でした。六ケ所村の再処理工場はどのくらいの使用済み燃料を処理するかというと、1年間に800トンなのです。800トンの使用済み燃料に含まれていたトリチウムはすべて六ケ所村から海に流すという計画が日本の原子力の根本政策だったのです。

いま福島で熔けてしまった炉心の200トン分の燃料の中に含まれていたトリチウムが問題になっていますが、それをもし海に流していけないということになれば、六ケ所村の再処理工場でも流せなくなります。毎年800トン分流そうとしてきたのですから、国としては、福島の200トン分の燃料に含まれていたトリチウムなどは、こんな量は、些末なものだと思っているのです。それを海に流さないで溜め込んでいくということになれば、日本の原子力政策の根本が崩れてしまうのです。だから、絶対に他の方法は彼らはやらないです。海に流すという方針をまったく彼らは譲ることはありません。放射能は怖いから海に流してはいけないということは普通だれもが思っているだろうし当たり前のことですが、この問題はそういうナイーブな問題ではなくて、日本の原子力政策そのものをどうするのかということとリンクしている、ということを皆さんも知っておかなければいけないと思います。

熔け落ちた炉心がどこにあるのか分からない

次に熔け落ちた炉心そのものの問題です。

7800発分のセシウム137があって、そのうち168発分は大気中に事故直後に出たと言われています。残りは汚染水の中にかなりの量があって、多分数千発分は汚染水の中にあるはずです。それを東京電力がいろいろなことをして捕まえて隔離している、今はそういう状態です。しかし、大部分のセシウムはまだ熔け落ちてしまった炉心の中にあるのです。でもその炉心がどこにあるのか分からないのです。

事故から10年経っているのです。もし事故を起こしたものが火力発電所であれば簡単です。火力発電所ですから火災は起こるかもしれない。でも、例えば火災が一週間続いてしまったとしても、火災が収まったら事故現場に行ってどんなふうになっているか見ることができます。壊れたところを修理して再稼働させることは比較的簡単です。しかし、事故を起こしたものが原子力発電所の場合にはそうはいきません。10年経っても現場に行かれません。人間が現場に行けば死んでしまうのです。

仕方がないから東京電力はロボットを行かせようとしてきました。ところがロボットは、意外に思うかもしれませんが、被曝に弱いのです。なぜかというと、こんにちのロボットはみなコンピュータで動いています。コンピュータの言語は二進法で0か1なのです。それしか言葉がない。はじめ0だったら次は0なのか1なのか、その次が0なのか1なのか、すべての言葉が0か1かで書かれています。その書かれている命令は、ICのチップに書き込まれています。そのチップに放射線が飛び込んでくると、元々0だったところが1になってしまうかもしれない、1だったところが0になってしまうかもしれない、あるいはそこだけ飛んでしまって言葉がなくなるかもしれない。そうなるとすべての命令が書き変わってしまいます。そのためロボットは被曝に弱くて、東京電力がこれまで現場に行かせようとしたロボットは、すべて討ち死にして、戻ってくることができないという有様です。

ペデスタル(台座)の外に流れ出してしまった熔けた炉心

ただし私自身は、ロボットはダメだけれど、できることは一つあると言ってきました。何かというと胃カメラです。胃カメラを飲まれたことがあるかもしれませんが、胃カメラだったら口や鼻から入れ、先端にカメラが付いていて中を見ることができます。

その長いカメラを作り、遠くからとにかく現場に差し込んでいって、うまくそれを差し入れることができれば、現場をみることができると私は言ってきました。実は東京電力はそれをやったのです。そして、熔け落ちた炉心がどこにどんな状態であるかを見ようとしました。

そして、とりあえず原子炉の炉心が入っていた原子炉圧力容器の直下まで差し込むことに成功しました。原子炉圧力容器というその鋼鉄製の釜を載せている台座(私たちは「ペデスタル」と呼んでいる)の中まで差し込んで、圧力容器のすぐ下まで差し込むことができました。

差し込むことができたその場所は、定期検査の時、作業員が行って作業する鋼鉄製の網のような足場(私たちは「グレーチング」と呼んでいる)が元々あったところです。その足場に大きな穴が開いてしまって熔け落ちてしまっていたことが分かりました。つまり炉心が熔け落ちて足場を熔かしてさらに下に落ちていった、ということまでは分かりました。しかし、さらにその下がどうなっているかは分からないという状態です。

けれども、その時の調査で、猛烈に重大なことが分かりました。

炉心を入れている圧力容器というのは鋼鉄製の圧力釜です。直径が5メートルくらい、高さが20メートルくらいある巨大な圧力釜です。それ全体を原子炉格納容器という容器で包み込んでいます。万が一事故があった時に放射能を外に漏らさないための防壁が必要だということで、原子炉格納容器というのを作ってすっぽりと全体を覆っていたわけです。

本当であれば放射能は格納容器の中に閉じ込められるはずですが、福島原発事故の場合は、大量の放射性物質が外に出てきてしまっているわけですから、格納容器自身がもう破壊されてしまっているということは確実なことです。

東京電力は、どこにあるか分からない炉心に向って水をかけ続けてきました。つまり原子炉圧力容器の中に「あったはずの炉心の部分」に水を入れていました。格納容器は放射能を漏らさないためには、空気も漏らさなければ水も漏らさない設計になっています。そこに向かって水をじゃあじゃあ入れてきましたが、格納容器の中に水は溜まりませんでした。つまり格納容器はボロボロに壊れてしまっていたのです。

いったいどこが壊れているのか未だに分かりません。とにかく格納容器の中に入れば人間は死んでしまうので格納容器の外側から胃カメラをずっと入れたのです。それで圧力容器の直下までは入れた。ペデスタルというコンクリート製の台座を突き抜けて直下まで入れたのです。

胃カメラを格納容器の中に差し込んだ調査の時の放射線量から重大なことが分かりました。格納容器の壁の中に入った場所では1時間当たり50シーベルトの放射線が飛び交っていました。どんどん中に入れて圧力容器の直下まで行ったときに、1時間当たり20シーベルト、半分くらいに減ったというのです。では、一番放射線が高かったのはどこなのかというと、「ペデスタル」という台座の壁と格納容器の壁の真ん中で、1時間あたり530シーベルトもあったと東京電力は発表しました。ペデスタルという台座の壁には作業員が出入りするときの通路がひらいているのですが、熔け落ちた炉心は、その作業員が出入りする通路を突き抜けて外に出てしまい、ペデスタルと格納容器の間にすでに流れ出してしまったということが分かったのです。

訂正を余儀なくされ無意味と化した工程表

(無意味と化した工程表 経済産業省HP)

このことは実はものすごく重要なことを意味しています。なぜかというと国と東京電力はとにかく熔け落ちた炉心はいつかの時点で、つかみだすと言ってきました。「つかみだし、放射能を閉じ込めるための特殊な容器に封入して福島県外に運び出します。それまで30年か40年かかりそうです。でも福島県外に出します」と福島県と約束してきたのです。

どうやってつかみだすかですが、国と東京電力はロードマップという工程表を書きました。その工程表によると、『熔け落ちた炉心は確かに圧力容器の底を抜いた。そして格納容器という容器の床に落ちた。落ちたけれども、炉心は、その落ちた場所に饅頭のように堆積しているのだ』というのが国と東京電力の考え方でした。私から見たら単なる願望だと思います。しかし、炉心は真下にあると彼らは言ってきました。

もし真下にあるならば、まず格納容器の上蓋を外し、次に原子炉圧力容器の上蓋を外して真上から見れば、その一番下の格納容器の床、ペデスタルというコンクリートの壁の内部にあるのだというのが彼らの考えです。そして、上からのぞいて、特殊な工具(そのようなものは現時点でないのですが)を作り、上から伸ばしていって、饅頭のように堆積しているものをつかんで上に引っ張り上げることができるというのが国と東京電力の工程表だったのです。

しかし、炉心は、今そこにないのです。ペデスタルの外側に出てしまっているので、いくら上から見てもつかみだせないという、そういう状態になってしまっているということが分かりました。

国と東京電力の作った工程表というのがまったくでたらめで、不可能ということは確定しているのです。そのため国と東京電力は工程表を書き換えました。『上につかみだすことはできない。諦める。しょうがないから、放射能を閉じ込めるための最後の防壁である格納容器のどてっぱらに人為的に穴をあけて、そこからつかみだす』という工程表に今はなっています。

当初の工程表は、『放射線が飛び出してこないようにするために、格納容器の中を水びだしにする。そうすると上から見たら30~40メートル下に饅頭のように堆積しているのであって、水が放射線を遮ってくれるから上から見られると、それなら作業できるだろう』というものでした。

しかし、格納容器はもうボロボロに壊れてしまっているから、水を溜めるなんて元々できないのです。国と東電は壊れているところを見つけ出して修理をして水を溜めて、またどこかが漏れたらそこを見つけて修理し、とにかく格納容器内を水びたしにして、はじめて作業ができると言っていたわけです。しかし、そのようなことははじめからできっこないのです。しかもそこには炉心はないのでどうしようもないことです。

そこで工程表を、格納容器のどてっぱらに穴を開けてつかみだそうと変えたのですが、そんなことをしたら水による遮蔽もできなくなってしまいます。労働者の被曝がいったいどんなに大変なものになるか分かりません。だからできないことです。

結局、国と東京電力がこれまで書いてきた工程表も破綻したし、書き換えた工程表もまったく実現性がないということです。国と東京電力は三〇年から四〇年後に熔け落ちた炉心と周りの構造物が一体となったデブリを取り出すと言っているのですが、そんなことはできるはずがありません。

福島の事故の収束はあり得ない

「百年経ってもデブリの回収はできない」と私は学者生命を賭けて断言します。しかし国や東京電力はそれを決して言いません。なぜかというと福島県に約束してしまったからです。約束したときの官僚は、3年くらいの任期で部署を代わってしまっていますからもういません。次の官僚がまた来て、今、やっていますが、その官僚たちも3年か4年辛抱すれば、また別の部署に行くことができるということで、だれも本当のことを言いません。そうやって日を送ってすでに10年経ってしまいました。

東電と国は本当のことを言わないばかりか、福島原発事故を忘れさせてしまおうとしています。

『デブリなんて30年から40年後には取り出せる』と言って、それを彼らは事故の収束と呼ぶと言っています。冗談は言わないでくれと思います。デブリを容器に入れたところで放射能が消えるのですか。それを10万年から100万年、どこかでお守りをしなければいけないのです。容器に入れて福島県の外に持ち出したら事故の収束だなんていう、そんなこと自体ありえません。しかし、そういうことは彼らは口をつぐんで一切言いません。要するに国が隠そうとしているのです。

日本では、「原子力の平和利用」だと言って原子力発電を進めてきました。その周りには「原子力ムラ」という巨大な組織が出来上がって、〝原子力発電所は絶対安全です。未来のエネルギー源です〟と、ずっと宣伝してきました。ほとんどの日本人がそれを信じてきているのです。私自身がかつてそれを一時期信じたことがありました。それくらいにほとんどの日本人は信じてきました。信じ込ませるために国は、マスコミと教育を支配したのです。マスコミを通じ、原発は絶対安全ですと繰り返し洗脳し続けました。教育の現場でも、子どもたちに原子力はバラ色ですと教え込んできました。それが福島の事故で実はそうではなかったと分かったのに、今また彼らは同じことをやろうとしています。

マスコミも一時期は福島の事故をかなり取り上げて伝えていました。しかし、もう今はマスコミ自身が福島原発事故について沈黙を決め込んでいます。電通をはじめとする広告会社は、「今度は次の原発を作りましょう」とか「福島で被曝なんてたいしたことありません」とかいう宣伝を流すことで、福島原発事故を忘れさせてしまおう、そういう戦略のもとに彼らは動いています。

心ある人は気がついていると思うのですが、2011年当日発令された原子力緊急事態宣言は10年経った今も続いているのです。新型コロナウイルスの緊急事態宣言がどうのこうのと毎日のように気にしているこの頃ですが、私から見ると冗談ではないという思いです。10年前に発令された原子力緊急事態宣言が今でも解除できないままだと。そういう状態なのに、それすら既に忘れさせられてしまっている。そういう日本の現状です。

福島の住民の被曝被害

(2011年段階 福島県HP)

被曝というものは、必ず健康に被害を与えるものです。それは明らかなことなので、世界各国は被曝について法律で制限をしています。日本も世界も「普通の人に1年間に1ミリシーベルト以上の被曝を加えてはならない」と法律で決めました。私はそんな数値すらも緩すぎると思っていますが、少なくとも法律でそれ以上にはするなと決めました。

私は6年位前まで京都大学原子炉実験所で、放射能や原子炉相手に仕事をしていた特殊な人間です。そういう特殊な人間は〝給料を払ってやっているのだから少しくらいの危険は我慢しろ〟と、1年間に20ミリシーベルトまでと法律で決められていました。私はその法律の体系の中で生きてきて、給料ももらっているからそれなりの被曝は仕方がないと思っていました。しかし、周りの普通の人に対して被曝を加えることはできる限りやってはいけないと、細心の注意を払いながら生きてきたつもりです。

しかし、福島の事故が起きてしまったとたんに、「原子力緊急事態宣言」が発令されて、もう日本の被曝に関する法律は守ることができないということになってしまいました。「福島原発事故による被曝に関する限り、1年間に20ミリシーベルトの被曝までは普通の人たちも我慢しろ」と国が言いだしました。それは原子力緊急事態宣言なるものを発令して、「今は緊急事態だ。異常な事態なのだから日本の法律は守れない」そういうことをひどいことを言っているのです。

従来の日本の法律はもちろんあります。例えば私がかつて在籍していた京都大学原子炉実験所では、相変わらず給料をもらっている労働者は1年間に20ミリシーベルトまで、敷地の外の人たちに対しては1年間に1ミリシーベルト以上の被曝をさせてはならないという従来の日本の法律で生きています。しかし、福島原発事故に関する限りは、一般の人も1年間に20ミリシーベルトまで我慢させるということにしてしまいました。一般の人の中には赤ちゃんも子どももいます。赤ん坊や子どもは原発関係で働いて給料を得るなんてことはもちろんありません。何の利益も受けていません。ましてや赤ん坊や子どもは細胞分裂が活発で、どんどん大きくなって成長していくという生き物で、被曝にたいする感受性が猛烈に高いのです。そういう赤ん坊や子どもたちに対しても1年間に20ミリシーベルトまでは我慢させると日本の国が決めたのです。何という理不尽なことでしょうか。

事故が起きて3月末までにヒロシマ原爆168発分に相当するセシウム137を含む様々な放射性物質が原発から放出されて、東北地方・関東地方の広大な地域が汚されました。放射線管理区域の基準というのがあって「1㎡あたり4万ベクレルを越えて放射能で汚れているものは、管理区域の外に持ち出してはならない」という法律ですが、その基準を越えて汚れた場所が1万4000㎢になりました。つまりその部分を全部管理区域にしなければいけない、普通の人々を立ち入らせてはいけないということです。管理区域というのは、私のような人間だけしか入れないという場所です。入ったとしても、水を飲んではいけない、食べ物を食べてもいけない、寝てもいけない、管理区域の中にトイレなど作ってはいけない、そういう場所なのです。そういう汚染地域が1万4000㎢もできてしまった。それでもどうしようもないから、みんなそこに住めということにしてしまいました。但し、それでも、どうしようもないほどひどい汚染地域があります。管理区域の基準に比べても10倍以上汚染されているというところが1100㎢あって、そういうところはやっぱり到底人は住めないから出ていけと避難させたわけです。15万人とも16万人とも言われていますが避難させました。しかし避難ということは言葉で尽くせないほど悲惨なものです。

福島県では大家族の家庭が多くありました。たくさんの人が一軒の大きな家に住んでいたという家庭もありました。そんな家族に向かって、ある日突然手荷物だけ持って逃げろと言われたのです。犬も猫も捨てる、酪農家・畜産家は牛も馬も捨てる、全部捨てて手荷物だけ持って逃げました。避難所という体育館のような所でしばらく寝る。しばらくしたら仮設住宅に行けと、二人で四畳半一間の割り当てという仮設住宅に行けと。そしてしばらくしたら災害復興住宅に行けと言われ、次々と追い立てられました。その間に家族がバラバラになるわけです。地域のつながりもバラバラになる。もちろん仕事、生業も奪われる。てんでんばらばらになって故郷を失っていくということになりました。そういう人たちが15万人、16万人いたわけです。1万4000㎢のうち1100㎢はそういう悲惨な運命に落とされました。

では、残りのところはどうなったかというと、本当なら放射線管理区域に指定して人々を逃がさなければいけないほどの汚染地に、何百万人もの人たちが棄てられてしまいました。そういう所で生きていた一部の人たちには子どもがいる。何とか子どもだけでも逃がさなければいけないと言って、父親は汚染地に残って母親と子どもだけ逃げた家庭もあります。父親が仕事を失うことも覚悟して家族全部で逃げた人たちもいます。そこにいれば健康に被害を受けるし、かと言ってそこから逃げようとすれば今度は家庭が崩壊してしまう、生活が崩壊してしまう、そういうことになったのです。残れば体が傷つくし、逃げれば心が潰れてしまうというそういう選択を迫られて今日まで生きてきたのです。逃げることができた人たちももちろんいるし、逃げられずに汚染地にとどまっている人たちももちろんいます。

無理やり進められる帰還困難区域への帰還

現在、国の方は、もう1年間に20ミリシーベルト以下なら良いのだからと、一度は逃がした人たちも、とにかくみんな帰れと今言っています。今は340㎢くらいだと思いますけれども、その部分だけは帰還困難区域ですが、その他の部分はもうみんな帰って来いということにしてしまったわけです。

住宅の手当ももうしないということになりました。福島県内ではもうたくさんの人が普通に生活しているのだから、帰りたくないなんて言うのはわがままだ、そんなわがままは聞かないと言っているのです。2017年までは、もちろん逃げろと指示を出した人に対してもそうですし、自力で避難した人に対しても、住宅の支援をしていました。しかし2017年3月で住宅の支援を打ち切ってしまいました。もう何でもないのだからみんな帰れということにしました。それでも子どもを抱えている家庭など帰れない人たちもいたのですが、2019年3月になってそういう家庭への家賃補助すら打ち切ってしまいました。

それでも帰れない人たちがいますし、国や自治体が支援して貸してきた住宅に残っている人たちもいます。そういう人たちに対しては、そんなわがままを言う奴は知らない、それならば家賃の二倍を払えと言って福島県が今裁判に訴えようとしています。

切り捨てられる健康被害への調査

私は京都大学で働いているときには放射線業務従事者というレッテルを貼られて、1年間に20ミリシーベルト被曝しても我慢しろと言われていた人間です。でもそういう人間であっても、被曝をすれば危険があるということは当たり前です。そこで、どうしたかというと、毎年の健康診断をきちんと受けなさいということも決まっていたし、被曝手帳というものを与えられて、何月にはどれだけ被曝をしましたということをきちんと管理をしていました。私が働く管理区域の中には、実験室ごとに放射能の濃度を測ったり放射線の強さを測ったりする機械を置いて、被曝を低減させるようにしてきました。万一被害が出れば場合によっては労災も認定するということでやってきました。

しかし、今の福島の人たちは私と同じ1年間20ミリシーベルトという基準であるにもかかわらず、被曝手帳すらないし、何の被曝環境の調査もしないし、健康診断もしないという状態です。福島県の子どもに関しては、甲状腺調査をやってきましたが、それすら、もう止めてしまえという圧力が猛烈に強くなってきています。場合によっては近い将来、子どもたちの甲状腺調査すらなくされてしまうかもしれないと私は心配しています。

3 いま若者に伝えたいこと

福島原発事故を止められなかったことを詫びたい

私は、今、まずはじめに若い人たちに対してお詫びをしなければいけないと思っています。

ある時点で私は原子力発電というものが途方もなく危険なものを抱えていると気づいて、とにかく大きな事故が起きる前に止めたいと思っていました。しかし私はあまりにも非力で、結局止めることができないまま福島の事故が起きてしまいました。膨大な地域に放射能汚染をさせてしまいました。私自身は今後、何年生きるか分かりませんが、そんな長くないうちに死んでしまいます。でも、今の子どもたちは、この汚れた大地で生きるしかなくなってしまっています。そのことを、大変申し訳ないことだと私は思っています。

私も含めて、今の原子力の恩恵を受けてきた日本の大人たちはすべて、そのことに関して責任があると思っています。皆さんにもそのことに気づいてほしいと思います。もちろん、少なくとも私は原子力の場にいた人間ですので、普通の皆さんと比べてはるかに重い責任があると思っています。若い人たちに対して本当に申し訳ないことだと、まずはお詫び申し上げなければならないと思います。

主権者として自覚をもって生きてほしい

そのうえで、ではどうするかということです。日本というこの国の人々は、ひたすらお上に弱かったと私には見えます。〝国の言うことに従っているのが一番だ。長い物にはまかれろ。寄らば大樹の陰。強いものには従え〟と、そうやってみんな教えられて育ってきてしまったように私には見えます。そのために先の戦争も回避できずに気がついたときには、もうみんなが天皇の名で戦争に巻き込まれてしまっていてどうにもならなくなってしまっていました。

戦争が終わると、ほとんどの日本人は〝騙された〟のだと言い始めました。

そういう歴史を繰り返してはならないと私は思います。

私は天皇制を諸悪の根源だと思っています。私は、何よりも一人一人の人間が一番大切なのであって、人間はすべて平等だから天皇などという存在を認めてはいけないと思います。

そして一人一人が自分の頭で考えるようにならなければならないと主張してきました。今の憲法の柱である民主主義をしっかり守らなくてはいけないと思います。民主主義というのは一人一人が一番偉くて主権者だということです。ですから一人一人が自覚をもって自分の生き方を決めるという風にならなければいけないと思っています。

自分の意志を発信し続けるのが民主主義

(松本駅前でスタンディングをおこなう筆者と市民)

私が今、松本駅前でスタンディングをやっているのも私の民主主義の一つの表し方です。普通の日本人は民主主義というと、選挙で投票に行くというくらいにしか思っていない人が多いです。冗談を言わないでくれという思いです。投票をして全然自分の意にそわないことになった場合には、やはり途切れることなく自分の意志を発信しなければいけない、それが民主主義だと私は思っています。だから、スタンディングもやっているのです。

少なくとも日本でこれから生きていく人に対しては、自分でものを考えてくださいということをお願いしたいと思います。今、若い人は大変だと思います。生活することそのものが大変だと思います。

私などは、京都大学の職員として国家公務員だったので、今でも年金をもらっていますし、生活することに困るということは今までありませんでした。しかし、今の若い人は、ほとんどが非正規社員ということにされてしまっていて、生きること自体がものすごく大変だと思います。そのような状況のなかで、ますますものを考えなくさせられてしまっていることもあるでしょう。でもそれを良しとしてしまうならば、またすぐに戦争の時代が来てしまいます。何とか踏みとどまって考えてほしいと思います。

私の場合は、「長い物には巻かれない。強い者には従わない」ということを自分に言い聞かせながら生きてきました。できればそれくらいの気持ちを持って生きてほしいと思います。

私自身はずっと原子力の場で生きてきた人間です。基本的にはそれからはずれるような生き方はこれからもできないと思います。特にずっと生きてきた原子力の場で福島原発事故というようなことが起きてしまったのですから、そのことに対して責任を取るということをやらなければならないと思っています。各地で講演に呼んでいただいたりすることもありますし、福島だけではなく日本中で、原子力発電所で苦しめられているところはありますので、そういう所にこれからも出かけ発言していこうと思っています。私が「これは我慢できない」ということに関してはこれからも声を上げ続けたいと思います。場合によって、その時々でいろんなことが起きることもあると思いますが、私の中で絶対にこれは譲ってはならないというものがあればまた行動していきたいと思います。

自主の道 秋号2021.9.1 より転載