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自主の会

JISHU NO KAI

アイヌ民族として生きて

平村哲子
アイヌ文様刺繍愛好家

わたしの生い立ち

わたしは1959年に北海道平取町荷菜(にな)で生まれ、そこで育ちました。荷菜というのは、アイヌ語で木があるところという意味です。

平取町荷菜

生まれた頃は、家の裏の用水のところに木材を運び出すための電車が通っていました。トロッコ電車のような鉄道で木材を運び出していたのです。

わたしは5人兄弟でしたが、いま存命なのは姉とすぐ上の兄だけです。姉はそうでもありませんが、他のアイヌが兄やわたしを見て、アイヌに見えないと言われることもありました。

学校の同じクラスには何人かアイヌの子がいました。

平取小学校には、荷菜や平取本町の子が通っていました。学校の手前に団地があって、そこにも貧しいアイヌが入っており、同じ小学校に通っていました。

アイヌ民族は、東西南北という概念ではなく、上とか下という表現を使っていました。小学校に入った頃は、東西南北と言われても、アイヌの考え方とは違うので、よくわかりませんでした。

父さんがよく、東に行くことは上に向かってとか、下とか言っていました。崖のことはパンケと呼んでいました。東がよくわからないなら小学一年生の教室に行って教えてもらえと、小学校の先生に言われたこともありました。アイヌの友だち5・6人で、一年生か二年生の教室に行って教えてもらいました。東と西がわからないと言われて、必死になって行きました。アイヌの考え方には東西南北の概念自体がなかったので、そのために勉強がよくわからないと思われてしまったということでした。

子どもの頃は、動物と遊ぶのが好きで、そればかりしていたので、親が心配して、友だちのところに行かせたり、親類のおばさんのところにいとこがいるので行かせてくれました。いま思えば親が心配してくれていたのだとわかりますが、その当時は嫌だと思っていました。犬や猫といる方が何も気を遣わなくていいから楽と思っていました。

近くに住んでいた友達と一緒に山菜採りにも行きました。友達の親は、麓が晴れていても、山に行くときは、カッパと傘を持っていきなさいと言いました。実際、急に雨が降りました。山の天気は変わりやすいということをよくわかっていてすごいと思いました。

母は山菜採りが好きで、よく一人で採りに行っていました。クマが怖くなかったのだろうかと思います。子ども同士で採りに行って、大きくなったものを取ってきたら、母にもそんなものはいらないと言われたけれど、近所のアイヌのおばあさんのところに持っていったら、「わたしは食うよ」って喜んでくれたのを覚えています。キトピロ(ギョウジャニンニク)でも一本菜でも、おひたしにしたらおいしく食べられました。川むこうまで友達同士、山菜を採りに行きました。

キトピロ
(ギョウジャニンニク)

また、いとこ同士で川をせき止めて、すぐそばの川で魚取りをしました。むこうをせき止め、こちらから追いかけて魚を取りました。その魚は晩ごはんになりますから、遊びではなく真剣におこなっていました。

当時、親戚のおんじ(叔父)が、シャケをつかまえて、卵をとっていました。本当は密漁になってしまうのですが、シャケの腹を押さえたら卵がピューッと出るので、「まあ!」と感心した覚えがあります。

萱野茂さんのお父さんはシャケをとって警察に捕まりました。萱野茂さんのお父さんは片目がなかったけれど、警察が来たときは、「ない方の目からも涙をこぼした、目がつぶれて見えなくても涙って出るんだなと思った」と、父さんから聞いたことがあります。

小さい頃は籠編みを見ていました。いまで言うハルパーを作っている人がいて、乾電池を利用して籠編みをしていました。その当時、籠はけっこう売れたので、それがアルバイト収入になりました。

籠編み・ハルパー

家では馬を飼っていましたが、父はあまり働かず、わたしが牧草地に燕麦をとりに行ったり水汲みをしたりしていました。いつもわたしが牧草地に行くと、「哲子さんのお父さんの職業は何ですか?」と聞かれて、ビクッとしていました。馬糞だしはしなかったけれど、真っ黒になって働いていました。近所の友だちの家まで行って掃除もしていました。

父はあまり働かない人でしたが、九州に嫁いだ姉のところに行ってきた後、馬糞だしをしていたことがあり、驚きました。

中学校の時は家の仕事を一生懸命やって、その後は富川高校に通いました。当時、平取高校には定時制しかなかったので、バス通学で富川まで通いました。

アイヌの子どもは、高校に通う人は少なかったし、中学校を卒業したら多くの人は集団就職していました。静岡の段ボール工場などに集団就職しました。当時は高校進学率も高くなってきた時代でしたが、平取で富川高校まで進む子は少数でした。

わたしは親が進学してよいと言ってくれましたが、授業料は自分でアルバイトして支払っていました。

兄も中学校を卒業して修理工場に就職しました。浦河の職業訓練校を出て、そのあと働きながら平取高校の定時制を卒業しました。ふつうは4年で卒業しますが、他の人よりも長くかかって卒業したので、同級生がたくさんいました。

わたしの家族

母は、アイヌに育てられたけれど和人でした。昔はアイヌが和人の子どもを育てることが多くあったようです。自分の子どもがいたのかはわかりませんが、和人である母をアイヌは大切に育ててくれました。

わたしが小さい頃、近所に住んでいた高校生が、母に向かって「おばさん、英語が話せるなんてすごいね」と言っていました。母がアイヌ語で話しているのを聞いて英語を話していると思ったようでした。母は、アイヌ語を上手に話せたようでした。

母は、アイヌである祖母のところにいつも誰かしら訪ねてくる人がいたと嬉しそうに話していました。わたしがとても幼い頃のことなので、はっきりした記憶はありません。

当時、祖母のところには、関東から来る学者などが多くいました。

タマサイ

家には、アイヌプリ(アイヌ式)の着物を着て、ヒゲをはやした人たちの写真もありました。アイヌの民具やシントコ(儀礼の際に使用する容器)もあったけれど、食べていくために交換してしまいました。タマサイ(ネックレス)もあったけれど、あまり記憶には残っていません。

生まれたころには、祖父母も一緒に生活していて、ケボのババと言っていたそうです。

シンコト

ただ、母の育ての親、あるいは育ての親の親のところに、学者が来て、その時、母がうれしそうにしていたのは覚えています。

当時、アイヌにはアルコール依存症になる人が多く、わたしの父も病院に入っていた時期もありました。そのため、長男が祖父のところに預けられたり、土地の関係で長男・長女と下の兄弟の名字が違うということもありました、

わたしの祖父、平村幸作は有名な人だったようです。襟裳に住んでいる和人の男性が、祖父の話した昔話のカセットテープをくれたことがあります。石井ポンペさんに聞いてもらったら、これはカネの話をしていると言っていました。聞いたところでは、祖父は他のアイヌの人をまとめたり、いろいろと話し合いをしていたということでした。

わたしが病気になった頃、本家を守っていた親戚が蝋管レコードや貴重な資料が出てきたのを寄贈したと新聞に出ていました。

シコロ(キハダ)

木材としてよく利用される

知里真志保さんや長老が集まって、蝋管レコードにアイヌ語を保存しました。その蝋管レコードや資料が保存されていました。

祖父が病気になった時に植えたシコロ(キハダ)の木が家の前にありました。

萱野茂さんが、その木は大切な木だから切ってはいけないと言って、道路の建設計画を変えさせました。結局、その木は枯れてしまいましたが、アイヌが大切にしてきたものを守ろうとしてくれました。

アイヌのまとめ役をしていたような祖父でしたが、父の話を聞くと、朝早く起きろと頭を蹴飛ばして起こされて、父は一生懸命仕事をしたということでした。ですから、そういうことしていたということは知りませんでした。

自然とともにあったアイヌの生活

幼い頃、近所に住んでいた村長を務めたことのある老人が、豚の耳のみそ和えをつくっていて、わたしが父に「村長さんの豚の耳を食べたい」と言ったことがあります。

コゴミ

それには、豚の脳みそが入っていて、その人にしか作れないものでした。村では伝統的に山からとってきた動物はすべて残らずうまく利用して食べるという習慣がありました。豚を食べるにしても、村中の人が集まって作業しました。

父がシンヌダッパといって、先祖供養の儀式をおこなっていました。先祖供養の時はお酒を飲むことになりますから、家のなかにゴザを敷いたり整えて儀式をおこなっていました。酒が飲みたかったということもあるかもしれないけれど、そのようにおこなっていました。山菜とりは母だけで、父は食べていました。

アイヌには自然と共生するという考えかたがあります。キトピロ(ギョウジャニンニク)でも何でも全部根こそぎ取ってしまうのは和人だと、兄も話していました。コゴミでもコンテナいっぱいに持っていくようなことをすれば、根こそぎなくなってしまいます。

山菜はコゴミでも何でも、二、三本残してとるのがアイヌの習わしです。

アイヌの仲間に助けられて

わたしがいちばん困っていたときに助けてくれたのもやはりアイヌの人でした。

わたしが保険のセールスで回っていたときに、雨に降られて濡れていたら、「あんた、幸四郎さんとこの娘でしょ、(濡れた服を)脱ぎなさい」と声をかけてくれたのもアイヌの人でした。濡れた服を乾かして、親切にしてもらいました。

親戚のいとこに、小学校は出たけれど字もよく書けないと言っている人もいました。そのいとこは遊びに行くと、いつも「飯食ったか?」と聞いてくれました。萱野茂さんもそうでした。「飯食ったか?」と聞いてくれて、シカの骨肉を食べさせて気遣ってくれました。

萱野茂さんも、親戚のいとこも、みんな親切にしてくれて、ありがたいと思っています。

アイヌは大事なものをもっていると思いますし、アイヌ同士でないと、本当のことを話せないというのはあります。

わたしの子どもが弁論大会にでたときも、地元からバスで駆けつけてくれました。白老で開かれた大会に平取から村のバスでたくさんの人が来てくれました。

最近は様変わりして、千歳で開かれた弁論大会の時は、人もまばらでした。

アイヌの男性のなかには、写真を撮るのを極度に嫌がっていた人もいました。みんなで写真を撮りましょうといっても、一切写りませんでした。差別されたことがあったからだと思います。奥さんは写ったけれど、自分は写らないよと全面的に拒否していました。いままでの生き様のなかで、相当プレッシャーがあったのかと思います。

貫気別にいるアイヌの友達と話している時が、いちばん心が休まるように思います。家族からは、二人とも違うことを言っているようでありながら、意気投合していると思われています。

自分がアイヌであるために苦労したということはあまりないと思いますが、辛いなと思うときは親のことを思い出したし、親が心の支えになりました。

家族には、生まれ故郷に帰るといったらうれしくなるはずなのに、平取に向かうと、いつも暗くなると言われます。

いちばん心配してくれたのは親だから、辛かったときは親のことを思い出しました。

今生きていれば百歳位になりますし、昭和の人は語らなかったので、思い出としてあの時はこんな感じだったのかなと考えています。

民族の誇りをアイヌ刺繍にこめて

わたしがアイヌ民族としての自覚を強くもつようになったのは、家族の勧めもあって、アイヌ刺繍やアイヌ語を習いに行くようになってからです。

マタンプシ

子どものことを考えて、アイヌ語や刺繍を習いに、東京まで通うようになりました。幸いわかりやすい場所だったので、通うことができました。

アイヌ語も刺繍も家族に勧められて始めた面もありましたが、今はもう、自分でやりたいと思って取り組んでいます。家族のために作りたい着物がありますし、上手でなくても、ていねいに取り組みたいと思っています。

これまで出会ったアイヌのなかで、いちばん心に残っている人は、アイヌ刺繍家の加藤町子さんです。同じくアイヌ刺繍家の小川早苗さんの妹さんで、アイヌ刺繍の本も出版されています。若くして乳がんで亡くなられています。

加藤さんの刺繍の教え方は、基本的なことから始めるのが徹底していました。たいへん厳しく教えられました。最初に刺繍を習いに行ったとき、「初めての人はマタンプシ(鉢巻)です」と言われて、「他の人はみな着物をつくっているのに」とは思いましたが、そういうことが大事だと思いました。アイヌの切手が出されたときは、加藤さんのデザインが使われました。加藤さんに教えてもらったときは、先生の気質がいいと思いました。

アイヌ刺繍に取り組むとき、アイヌ民族としての誇りをもつということもありますし、よいものをつくっていけば、後の世代に残していけるという気持ちもあります。

今は、マタンプシと着物をつくって残していきたいと思っています。

文中に登場する「萱野茂」さんの
「萱野茂 二風谷アイヌ資料館」

萱野茂さんの奥さんが作った着物を見て、どうしてもほしいと思って譲ってくれないかと話したことがありました。そのときは、「ああこれはダメなんだよ」と言われました。わたしが何度も話したら、着物を譲ってくれる代わりに、着物の生地をくれました。この生地を使って、自分で着物を仕上げなさいということだと思います。ですから、今はマタンプシと着物を元気なうちに残していきたいと思っています。

子どもが見てくれるかどうかはわからないけれど、残したいという気持ちでつくろうとしています。指が痛くなって、なかなか進まないけれど、いたわりながら、できるだけ丁寧にやっていきたいと思います。

デザインするセンスがあるわけではないけれど、丁寧にやればなんとか見られるようなものが作れるかなと思っています。

同じものを見ても、こんなものができるのかというデザインをする人もいますが、自分なりに丁寧に、自由にやらせてもらっています。

次の世代に残したいという思いを受けとめてくれる人がいるので、わかってくれる人がいるというのはありがたいことだと思っています。

自主の道 夏号2021.5.1 より転載