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自主の会

JISHU NO KAI

ハンセン病患者の体験を語り継ぐ
差別のない社会をめざして

岸 従一
栗生楽泉園「重監房資料館語り部」

草津温泉街からの患者分離策が始まり

まず「栗生楽泉園」はなぜできたかということからお話をします。

明治時代に草津の町では、人々の間に、ハンセン病患者の動向が温泉街の発展を阻害すると危惧されはじめました。

この問題に対処しなければならないと、草津改良官(現在の町会議員)たちが、温泉街からのハンセン病患者分離に着手しました。温泉街の下の方の荒地にハンセン病者の自由療養棟を建て、そこを「湯之沢」と称しました。

明治20年に草津町では、ハンセン病患者に湯之沢への移転命令を出しました。ここに、湯之沢部落が開村し、その後、多くのハンセン病者が集まり始めました。

湯之沢は草津町の東方にあり、ごく狭い谷に湯の川がながれております。流域には大小無数の湯が散らばっており、背丈もあるようなクマザサが生い茂っているところでした。明治の中ごろにはこの谷を「地獄谷」と呼び、その下には「投げ捨ての崖」と呼ばれるところがありました。金のない人の死体をここに捨てたことから、「投げ捨ての崖」と言われたということです。

生きているうちに投げ捨てられた人のうめき声を実際に聞いたと話してくれるおばあさんもおりました。また、豪雨で崖が崩れ白骨が野ざらしにされているのを見た、ここを骨が原と呼んでいたと話してくれた人もおります。

この湯之沢部落には、現在の大滝の湯にむかって左のほうに小高い丘がありますが、そこは殿塚と申しました。このへん一帯を湯之沢と呼んでおりました。

草津町と湯之沢が分かれる境に、二本の丸太の杭を建てました。ここから下が湯之沢、ここから上が草津町ということです。現在の高松旅館を拠点にして境に杭を建てて仕切られたそうです。

「栗生楽泉園」の名前の由来

「栗生楽泉園」という名前についてお話をします。

ここは、小雨部落の地主さんから買い取った土地です。当時、六合(くに)村の地主さんは〝栗がいっぱい生えている、栗の生えている丘〟と呼んでいたそうです。そのこともあって、それでは、栗生(栗が生きる)というふうに名前を変えたらよいのではないかということで、「栗生楽泉園」という名前が誕生したそうです。

昭和16年に行われた「湯之沢対談」(※後掲参照)には、日立区が「自由地区」と呼ばれるようになった理由が残っています。そこには湯之沢より引っ越した人たちが自分でお金を出して建てた家もありましたし、あるいは完成した家を5円から7円で買って生活をしたという話もあります。四畳半の小さな家だったそうです。5円の家と7円の家の違いは、5円の家は壁の内と外が板だけで、7円になりますと、内と外の間に土壁が入っていたと言っておりました。当時の物価は、白米10キロが3円32銭、またはタバコのゴールデンバットは一箱10銭くらいだったそうです。

入所の際の苦労、そして差別

楽泉園に入所する際にも苦労がありました。軽井沢駅から草津電鉄に乗り換えようとするときに、患者だとわかると乗車拒否をされ、大方の人たちは歩いて60キロの道を線路伝いに、二日あるいは三日がかりで歩いたそうです。途中で日が暮れると、線路工夫が道具を入れておく小屋で、一夜を明かすこともあったそうです。

また他県からの患者輸送の実態にも、実にむごいものがありました。関西・東北・信越地方より、続々と当園に患者が送り込まれていきました。

彼らは輸送車の都合で、その地方ごとに行って、すぐに同日収容されました。

当日、通常ダイヤに特別連結された患者輸送車がやってきます。沿線の駅には、最寄りの患者の家から警官や役場職員に連れ出された患者が、人目を避けるように顔を伏せて立っております。警官や役場職員は、そうした患者の気持ちなどはおかまいなしに、患者の立っている足元にチョークで円を描き、この線から外へ足を踏み出すなと命じたりしました。患者は、輸送車が到着するまでその場におかれ、ベンチに腰をかけて休むことも、構内の水道に水を飲みに行くことも許されなかったのであります。

そして、患者輸送車が来ると、すぐさま車内に押し込められ、乗車口には「らい患者護送車」と大きく張り紙がされておりました。この車両は特別仕立てで人も寄り付かず、また寄せつけもしないことから、いつしかこれを〝お召列車〟と呼ぶようになりました。

お召列車は途中、いくつかの駅で患者を拾いながら、軽井沢駅また渋川駅に着きました。そこから当園には収容バスに乗り換え、さらに数時間山道を揺られてようやく園の正門をくぐるのであります。

冬の過酷な生活

所内には、一舎に6部屋という長屋がありました。この1号から6号の部屋は四畳半でした。これは板壁でありますから、隣の人が屁をたれても聞こえるというようなおそまつな部屋でした。

そして、四畳半の部屋の前は四枚の障子でしきられ、その外側には1メートルぐらいの廊下があります。外と廊下の間にはガラス戸が4枚入っておりますが、これはいまのサッシ戸とは違って、昔のガラス戸でありますから、冬になって吹雪になると、廊下にいっぱい雪が積もってしまいました。その雪の上を上履きをはいてトイレに行くというような、本当におそまつな部屋でありました。

冬の困りごとは廊下の雪だけではありません。その当時の部屋というのは隙間が空いていまして、天井裏に吹雪が入ってきます。炬燵で部屋の空気が暖まると、その入った雪が溶けて、ボタボタボタボタと雨だれのように落ちてくるのです。それでどうしたかと言うと、みんなで天井にあがって、スコップあるいは十能(じゅうのう・火を入れて持って歩く)などで雪をかき落とします。それでも残った雪がきれいに溶けないから、午後3時ごろになって外気が下がると、自然と天井の雪も凍ってしまいます。そしてまた次の日、部屋が暖まると雪が溶けて落ちてくるというような冬の厳しい生活でありました。

ようやく昭和38年ごろから、舎や部屋の改築が話し合われるようになり改築が実現しました。真冬の吹雪がしのげるようになったわけです。

それから徐々に現在の建物になるまでに何回も改造しました。そして以前の建物を全部取り壊しようやく現在のような二間で床暖房設備などが整った部屋に住むことができるようになったのです。

血のにじむ強制労働

園内では入所者が作業をしました。要するに強制労働です。

六合(くに)村の花敷に炭倉庫があり、炭の配給がありました。そこへ一人あたり2俵を割り当てられて背負いに行くわけです。健康な人は背負える。しかし不自由な人は健康な人に頼んで背負ってもらうというようなことがありました。不自由な人はほんとに大変だったろうと思います。しかし健康な人も身体が丈夫だと言っても、そんなに何回も往復することもできません。

また、薪処理とか炭処理は陽気のいい季節にはしません。冬の強制労働です。雪の降る日などは本当に大変でありました。現在は、火葬場の跡がある谷、そこを地獄谷と申しますが、そこの山の立ち木(営林省の立ち木)を全部、園が買い取りました。そこで「おまえたち、炭をやれ、薪をつくれ」と強制労働させられたのです。

あまりの急坂のために、背負って上がることができません。そこで、人間鉄索(ロープウェイ)と呼んでおりましたが、一メートル間隔ぐらいに並びまして、50センチから60センチの薪を、手渡しで、こう次から次へ送ったわけです。

真冬の仕事ですから、手袋をしてもすぐ濡れてしまいます。さらに、手の感覚がないために傷をしても痛くないのです。また薪を片手で上げることができないので両手で持ち上げて、これをそのまま火葬場のあったとこへ山積みにするわけです。

手の感覚がなくなったうえに、傷ついた手で運ぶので、血のついた薪がいっぱいあがってくるというような強制労働だったのです。

そしてそのころの治療といえば、リバノール液(傷薬)で治療してもらうぐらいでした。しかし、また次の日も重労働が続き、リバノール液で治る暇はないし、そしてまた化膿する、あるいは凍傷にかかるということになります。すると医者はすぐ、「ああこれはここから切れ」と、関節からはずすのです。そうすると一本はずすとこんど次の指が負担になってきて、次の指も気づいたらまたそれも取ると。そして、五本の指を一関節ずつ抜くと言うか切断して、あるいは指の元のところ全部切断してしまうのです。そのような治療の結果、何と言うか、ご飯のしゃもじといったら変な言い方かもしれないけれど、指が全然ないからご飯のしゃもじみたいな手の人がいっぱいいました。現在は、みんな亡くなってしまって、もうそういう人はおりませんけど、私が昭和二四年にここに入園したときにはいっぱいそういう人がおりました。義足の人もいっぱいおりました。

強制労働で命を落とす人も多くいた

強制労働で、本来の病をすごく悪くした人も命を落とす人もたくさんおりました。

昭和19年の一番多くの人が死んだ月には、一ゕ月に百何十人という人が亡くなったそうです。火葬場一つでは間に合わないので、露天で焼いて葬ってもらったそうです。自分たちが焼き場へ行って焼くのだけれど、露天だからきれいに焼けないわけです。親戚やら知人が来て、はい、じゃあ骨上げしますよと言っても、なかなかきれいに焼けていない。そういう場合は、そこの谷へすぐ捨てたそうです。そういうことをしなければならなかったという話も聞いております。

昭和19年には、1350何人かが収容されていました。実際の病床数は、950ぐらいだったそうですけど、1300何十人という人を押し込んで、12畳半に4人も5人も寝たと。そういうことであります。

栗生楽泉園にはこのような歴史があります。

父とともに入所して

(以下の文章は、重監房資料館だより「くりう」2016年9月号より引用)

『無らい県運動と隔離の果てに・~楽泉園の子ども時代~』

私が昭和24年に父親と共に栗生楽泉園に入所した頃の様子をお話しします。

ある日、我が家に保健所の人たちが来て診察し、父親と私はハンセン病と診断されました。

次の日の夕方、父は死を決心していたらしく、家の前にある溜め池の縁で、私に石を抱かせて荒縄で縛りました。大声を出して泣き叫ぶのを聞きつけた母は、私の元へ飛んできて、すぐ縄を解きほどいてくれました。父は、何も言わず、家の中に入っていきました。私は今でもその光景を忘れることができません。

その後すぐに、私と父親は幌付きトラックの荷台に揺られて草津にある国立療養所栗生楽泉園に連れて来られました。

私たちが入所して間もなく、家に保健所の人が来て家の隅々を床下まで消毒し、私たちが身に付けていた衣類と布団を近くの河原に持って行って焼いたそうです。こうした「無らい県運動」と「隔離政策」によって、私たち患者や家族は村八分の苦しみに立たされたのです。

入所するとき、私たちが持ってきた衣類は全て消毒され、一週間ほど、収容病棟に入れられた後、親子ということで夫婦舎に入居しました。そこは一棟に、四畳半の板張りの部屋が六つ連なった長屋で、すれ違いもやっとの長廊下がありました。部屋の隅には、小さな炉が切ってあり、そこで煮炊きをしました。炭と薪は配給制で、水道は長屋四棟に一本の蛇口が外にありました。

冬は毎日のように吹雪になり、天井裏に雪が吹き込んで凍りました。その雪がお昼ごろになると部屋の暖かさで解け、雨漏りのように落ちてくるので、天井の雪下ろしをしました。それも午後3時頃になると気温が下がって自然と凍るので雨漏りもしなくなるといった繰り返しの生活が続きました。

園内には、子どもの患者が学ぶ「栗生望学園」(通称「望学校」)があり、私もそこに通いました。小学生一教室、中学生一教室に分かれて勉強し、入所する前に教師をしていた人など、子ども好きな入所者が勉強を教えてくれました。

ちょうど、治らい薬のプロミン注射が出たころで、授業の途中、10時半ごろになると「先生、注射行ってきます」と学校を抜け出し、11時半近くに注射が終わると、「もう、学校はよすべえ」なんつって、学校へ行かずに昼飯を食べ、また一時ごろ学校へ行くというような生活でした。

昭和29年の4月から、望学校は、草津小・中学校の分校となり、本校から二人の教師が来ましたが、いつもマスクと軍手をして、白衣姿で授業をし、一年で辞めて行ってしまいました。

卒業してから「何か園の作業をしなきゃならん」ということで、売店の店員になりました。作業賃は、一日働いて30円でしたが、園内の作業はどこでも同じくらいだったと思います。

昭和34年に食搬車が入ったので、助手になり、配食と残飯を集めて豚舎に運ぶ作業に就きました。

義務看護といって、時々、不自由者棟に行かされました。盲人や義足など重度の障害をもつ人たちが、一部屋に4~5人いました。当番の日は、朝5時半ぐらいに起きてその舎に行き、お湯を沸かしたり、皆の箱膳に食器を並べて盛り付けした後、食事が終わるのを待つ間、「自分もいつかはこうなるかも知れない」と思うと、不安でたまりませんでした。

幸いプロミン注射のおかげで、大事に至らず、その後の月日の中で運転免許も取ったり、労務外出をしたりすることもできました。今は「元患者」として元気に暮らしています。

(引用終わり)

みんな高齢になるなかでの自治会活動

現在、栗生楽泉園には52名が生活しています。園では自治会活動として、年に一回、厚労省に行って陳情活動をしておりました。いくつかの療養所が集まったブロックでおこなうこともあるし、単陳(単独陳情)と言って各療養所ごとにおこなうこともあります。「医者が足りない・看護師さんが足りない・あるいは看護助手さんも欠員している、早く何とかしてくれ」というような陳情を、年間行事というか、毎年五月におこなっていました。

新型コロナウイルス感染症が流行してからは、各園では、書類でもって厚労省に届けるという形になっています。

また、毎年、単独陳情をする前に、ブロック会議を東京でやっています。しかし、どの療養所も、平均年齢が80歳以上になっています。楽泉園は八六歳です。若いと言っても80歳以上がほとんどの療養所です。年々、収容者数が減少しておりまして、100名以下の療養所も半分くらいあります。何をするにも健康面・年齢面から、園内活動・各療養所の活動が限られたことしかできないようになってきています。昔ならすぐ「陳情。陳情でなければ」と言って陳情に行ったり、あるいは本館に座り込みをしたりとしていたのですが、そういったことはもう一切できなくなってしまいました。

今後のことについての思い

最近では、園当局の幹部のみなさんと自治会の幹部で、これからどうしようかというような話し合いを月一回しています。しかしなかなか結論がでません。

国は「最後の一人までめんどうみます」と言っておりますが、患者自体、「じゃあおれたちは誰が最後になるか」「いやあ、俺は最後にならん」「もう歳も歳だからそんな心配することはできない」などと言って、なかなか話がまとまりません。

その最後の一人になるまでの状況をどのようにして把握していくのか。厚労省としてみれば、放っておけば、もう減って亡くなっていくからそんなに騒がなくてもいいだろうというように思うかもしれません。しかし、実際こうして療養している人たちにしてみれば、ほんとに後が心配です。療養所の最後の集大成というか、それをどのようにまとめていったらいいか自治会としても苦慮しております。

実際、この前、園当局に私は聞いたのですが、「そのようなことについては厚労省から話などないですよ」ということでした。それはないに決まっています。けれど、一応、そういうことを聞いておかないと、私たちには、園の人たち・職員が何を考えているのかが分からないのです。

あと5年、長くても10年もすればこの療養所自体はなくなってしまうのです。

そこで私たちは永久保存、要するに建物だけは何とかして残してくれと要望しています。最初に建った青年会館という建物、そして納骨堂・重監房そういったものをどうしても永久保存してくださいと言ってお願いしております。

しかし、学芸員が来て、一人か二人で守ってくれるといっても、見学者もいなくなり草ぼうぼうになってしまうかもしれないのです。それでも永久保存と言えば永久保存と言えるだろうけれども、そのあたりのことも煮詰めてはいません。永久保存になればいいだろうと言ってはおりますけど、どんな形で永久保存をしてもらえるか、はっきりしていないと思います。

真剣に考えていると、私たちもあと5年か10年です。そして一年一年はすぐ過ぎてしまいます。残った人たちがどのようにしてこの療養生活を終わることができるかということも大きな課題です。現在のこの園の状態でいけば、住んでいる舎・部屋で最後まで看取ってくれるという約束にはなっております。しかし実際に職員が手薄になり、医者もあまりいない、看護師もいない状況になってきて、どのようにしてみてくれるのかというところは保障されていません。

療養所のこれからを考えると、本当に今が一番よい時期かなというような感じもします。

子どもたちにも伝えたい

新型コロナが流行してからは全くおこなっていないのですが、自治会が中心となり、子どもたちに体験を話す活動もしています。

群馬大学の小沢先生が同行してくださって、40分から一時間くらい映写機で、ある程度のことを映像で見せてから、ハンセン病のおおまかなことを話します。

下仁田に行った時のことを話します。子どもは10人ぐらいしかいませんでした。保護者と30人ぐらいでやってくれるかということでしたが、私たちはやりますよと言いました。

子どもたちは、一生懸命聞いてくれました。ハンセン病のことを話すとそれにたいして手紙をくれるわけです。感想を読むと、やはり子どもたちもそんなハンセン病と言っても全然知らないのですね。知っている子もたまにいますが、おじいさんやおばあさんに聞いたと、その程度ですね。やはり知らない子が多い。

ハンセン病患者が出た家族は、これを隠そう隠そうと思い、一生苦労をしながら歩んでいるわけです。しかし、70代から80代の人たちは、昔の強制収容のこととか、そのときに保健所は消毒したこととか、そういうことをみんな知っているわけです。それでハンセン病は健全じゃないということがやはり頭にあるのです。その孫の世代の子どもたちが来るわけです。

私は「学校でこういうところへ行くけど、みんなのおじいさんやおばあさんは何と言ったのか」と聞きます。「それはいいことだから行ってこい」と言ったのか、「それとも怖いとこだから気をつけろ」と言ったのかと聞きます。そうするとやはり、中には怖い病気だと言われてきましたという子が結構いるのです。

だからこれはもうどうしようもないことです。現在の70代や80代の人は、そういう過酷な収容実態を見た以上、これは恐ろしい病気だなあと思ってしまうのですね。会社員とかそういう人たちは他の土地に移って生活もできるけど、農業とかそういう仕事の人たちは一生そこで過ごさなければならない。そうすると何代も何代も「あそこは、らい病が出たところだ」とかそういうことを言われることがあるのです。

国ぐるみで、ハンセン病とわかったら消毒までしたのだから、それをみれば周りの人はどれだけ怖い病気かと思う。家族も、自分の家族にハンセン病患者が出たとすれば、それは一生隠そうとしたわけです。しかしいくら隠しても、国から来て保健所から来て、みんな消毒していった。そうなればやはりまわりの人だって、あそこは怖い病気にかかっているということになり、それが末代まで続いていくわけです。

療養所の将来について

将来構想ということですが、重度身障者の病院というものをここにできないかということも考えてはいます。保険がきき部屋もあるので、現在あるここへ住んでもらって、共存共栄で職員に見てもらうと、そういうようなことができないかと思うのです。

群馬県には、一ゕ所、県立の重度身障者の病院というか施設があると思うのですが、そういう人たちに入居してもらい、家賃とか何とかそういうのは別にして、看護師がここにいるから、ここで療養してもらうというのはどうだろうかと。国にも少し協力してもらえれば、永住というか、ある程度は職員たちも心配しなくて生活できるのではないかなというようなことを考えているのです。

しかし、国ではそのようなことについては、なかなか「うん」とは言わないです。

また、ほかの療養所みたいに、幼稚園あるいは老人ホームということも考えてみましたが、あれはただ土地を借りて、そこで独立して営業するという建前です。ハンセン病の患者さんとは全然もう別個なので、偏見や差別とは全然関係ないのです。

老人ホームについて、町のある役職の人に聞いたら、それはだめだということです。老人ホームは草津でもやっているけれど、なかなか入居者がいないと。それは、費用が高いからだそうです。草津ではそのようなことができるわけがないです。

やはり国の政策が肝心です。ここは「国立」だからね。それを、何とかしてうまく利用できればいいなと思います。

ここの土地柄は、本当にどこにも行けない山の中なので、なかなか話を進めるのは難しいのではないかなと思っています。

現在は全国に13ゕ所ある各療養所に入所している人は、1200~1300名います。その人たちは、だれもハンセン病の菌は持っていません。しかし、持っていないからと言って、では強制収容で放り込んだのだから、いま出て行けと言うわけにはいかないのです。菌は持っていないけれど、後遺症でこういうふうになっているから、国としては強制的に退所させるわけにはいかないのです。

体力の続く限り活動を続ける

これまでお話してきたように、国の隔離政策によって、ハンセン病について間違った認識が広がってしまいました。いまでも、一部、特に年配の人々は、ハンセン病は怖い病気であると考えているでしょう。そういうなかで、患者たち自らが誤解を解こうと闘ったこと、そして、そうした患者たちを熱心に応援してくれた人たちもいたことを、皆さんに覚えていて欲しいと思います。

私自身も、そうした誤解を解き、ハンセン病について社会の皆さんに正しく理解してもらおうと、「語り部」の活動を始めたのです。これからもその思いを忘れず、体力の続く限り活動を続けていこうと思います。

編集部註

【湯之沢対談】について

1941年に療養地の人々と群馬県・警察とがおこなった対談。

この対談によって患者自由療養地「湯之沢」は解散に追い込まれた。

栗生楽泉園は、1931年に改悪された「らい予防法」に基づいて設置された国立療養所第2号。1932年に設置され、それ以後、「湯之沢」解散と園への「強制収容」の動きが強まった。

「患者居住地『湯之沢』は、1930(昭和5)年調べで既に人口800人余に及んでおり、当園開設を以って直ちに『湯之沢』解散そして強制収容へとは容易にいかなかった。なぜなら『湯之沢』=『患者自由療養地』としての住民意識が、国の『患者強制隔離撲滅政策』に強く反発したからである。特にこの間の1916(大正5)年、日本のハンセン病患者救済目的で来日していたイギリスのコンウオール・リーが『湯之沢』を訪れて活動を開始し、貧しい患者たちのホーム建設をはじめ、病院、さらに患者子弟の学校及び幼稚園まで設けるなど、あくまで患者自由療養地『湯之沢』住民の生活・医療支援に徹する成果を挙げていた。また町当局も『湯之沢』における区長あるいは町議会議員の選出まで認めていた事実もありで、『らい予防法』による強行突破はさすがに適わなかったと言っていい。

結局中国侵略戦争のさなかの1941(昭和16)年太平洋戦争勃発前夜、即ち同年5月群馬県の介入により『湯之沢』患者療養地は解散に追い込まれたのである」

(栗生楽泉園自治会発行のガイドブックより)

自主の道 夏号2021.5.1 より転載