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自主の会

JISHU NO KAI

イチャリバチョーデー(出会えばきょうだい)ヌチドゥ宝(命は宝)

仲村芳信
沖縄大学名誉教授

最初に仲村芳信先生の生い立ちやご家族のことをお話いただきます。

ご実家のこと、生活のこと、そして、沖縄戦での戦争体験についてお話ください。

私のふるさと

私は沖縄本島の中城村字南上原の、緑豊かな山野に抱かれた家で、1940年に生まれました。

子どものころの私は、バスも通らない店もない孤立した静かなヤードゥイ(屋取)で、一歳下の弟や数人のいとこたちと山野を遊びまわっていました。

ススキでサンを結び、ヤブの中のハチの巣を叩き落として、その中の幼虫を取り出して食べたり、山イチゴやヤマモモを採って食べたりしておやつ代わりにしていました。

ヤードゥイでは、昔から砂糖キビ栽培が盛んで黒砂糖を造って出荷していました。

実家は牛・馬・豚・山羊・ニワトリ等を飼っていました。稲作用の田んぼは無く、畑では砂糖キビ・芋・豆・野菜等を収穫していました。

当時、生活はとても貧しく、恒常的に苦しかったことを覚えています。富国強兵下の日本に重税をとられていたのではないでしょうか。

口減らしのために、実家の叔父や叔母たちは南米へ移民しました。

【ヤードゥイ】

屋取。明治政府が廃琉置県をしたことにより、琉球王府の役人などが生活の糧を求めて地方に下り、移り住んだ居住地のこと。

【サン】

サン

沖縄では、道端にあるススキの葉先を丸く結び、魔除けにしている。その丸く結ばれた形を「サン」と言う。

日本兵がやってくる

沖縄にも、戦火が迫ってくるなか、日本兵が南上原にやって来ました。そして、軍事訓練を繰り返しおこなっていました。

日本兵は、勝手に私の家に出入りし、全ての家畜を食べつくしたのです。保管していた黒砂糖もすぐ無くなりました。

それでも私たち子どもは、貧しくても平和で楽しい日々を送っていました。

私が四歳半の時、突然、私たちのヤードゥイの茅葺き家が全て火の海に包まれ、焼け出されてしまいました。アメリカの空母から飛び立ってきたグラマン機に爆撃されたのです。

中城村南上原が日本軍の野戦訓練場となっていたのを米軍は前もって知っていたのでしょう。

住家を失った村人たちは着の身着のまま逃げ惑いました。

長男叔父さんの家族は、ひとかたまりになって隠れているところに爆弾が直撃して一瞬にして全員吹き飛ばされて死んだそうです。

逃げ惑う村人たちは米軍のグラマン機の機銃攻撃で撃ち殺されたりケガを負ったりしました。

私も飛び散った破片で左足に大けがを負いました。

沖縄戦 南部へ南部へ

沖縄戦が始まったのです。中北部から押し寄せてくる米軍に追われ、私たちは、家族で南部へ南部へと向かって必死に逃げました。

ある日の夜、母が幼い弟に授乳中、近くに爆弾が落ち、飛んで来た鉄の破片で乳房の半分を切られ授乳ができなくなりました。

負傷した母に代わって、乳吞児の弟を10歳の兄が背負い、死体が横たわる戦場を逃げ惑いました。生き延びるために逃げながら草をむしって食べたり泥水を飲んだりしました。

激戦地の沖縄南部で真っ暗な夜、近くに爆弾が落ち、母は飛んできた破片が当たり、胸に穴が開き、スースーと息が噴き出しました。母の胸の穴を祖父が持っていた芋で覆いかぶせました。

胸に傷を負った母を道端に横たえたまま、家族は暗闇の中を四方八方に逃げました。

気が付いた時には私は3歳半の弟と一緒に、ある海岸の波打ち際にたどり付きました。あまりにも喉が渇いて死にそうになりました。そこで、足元の塩水を飲もうとしたのですが、あまりにも塩辛くて飲むのを止めました。

その夜は、脱水症状になって、フラフラと砂浜を歩いていました。

沖縄の防衛隊らしい、武器を持たない男たちが十数人群れている砂浜の岩陰の所に弟と二人で近づいて行きました。

男たちには小さいおにぎりが渡されていました。おそらく切り込み決行直前に渡された最後のおにぎりであったのかもしれません。

私たち子どもに気づいて、二人の男性が自分に渡されたおにぎりを、自分たちは食べずに、弟と私にくれました。

男たちの群れは、その後、すぐに去って行きました。もらったおにぎりで私たちは命をつなぐことができたと思います。さもなければどこかで行き倒れになっていたことでしょう。

米軍の捕虜になる

翌朝、砂浜を歩き続けていたら、突然父が現れて、私たちをススキの下に隠しました。それに気づいた米兵がススキ林に向けて発砲しました。

戦火を逃れて避難する住民

鉄砲の弾が私と弟の隠れている足元に着弾し、白い煙が立ち上がった途端、あまりの怖さに耐えられず、弟と二人、戦場ではじめて大声をあげて泣き出しました。

すると、米兵は発砲を止め、走り寄ってきて父とわたしたちに「カマウト! カマウト!」(出て来い!)と大声で叫びました。

アメリカ兵と沖縄の子ども
筆者は関係ありません

父は「くまうてぃ、まじゅん死なやー」(ここで一緒に死のうね)と言いながら、米兵の言う通り両手をあげて砂浜に出て行きました。

すると、米兵は私たち三人を横に並べて紙に包まれた何かを手渡しました。それを食べたら死ぬと思って貰った物を即座に捨てました。おそらくおいしいチョコレートバーであったかもしれません。

まもなく大きなGMCトラックに乗せられて捕虜収容所に連れていかれました。ススキで作られた山羊小屋のような収容所でした。

長期間、食べ物らしい物を口にしていなかったので、毎日お粥のような物を食べさせられました。しかし、それも消化できず下痢が続きました。

数日後、収容所に突然、女の人が会いに来ました。母でした。「母は死んだ」と父に信じ込まされていたので一瞬「母の幽霊が来た」と思いました。

母は、他の死体と共に米軍の火炎放射器で焼かれようとしていたそうです。胸を怪我して道端に倒れていたところ、母が息をしていることにハワイ二世の兵士が気付き、野戦病院で傷の手当てを受けて助かったそうです。母は鬼畜米英と言われた敵軍に命を助けられていたのです。

その後、一番下の弟は飲むミルクが無く栄養失調で瘦せこけたまま息を引き取りました。

多くの琉球人が亡くなった

敗戦後、私たち家族は父の故郷、佐敷村冨祖崎に住み着きました。

父はアルコール依存症でした。母は、体に数か所の怪我を負いながらも畑仕事をして、父の借金を返しながら家族を養いました。母は、私のアメリカ留学一年目に58歳で他界しました。

沖縄戦では、20数万人が死にました。その半数以上の12万余の人が琉球人です。

現代の戦争は、軍人よりも弱い子ども・老人・障碍者・婦女子が、だれよりも先に犠牲になる事が判明しました。

人類の歴史は人間同士の殺し合いの連続であることを私は自分の体験から実感しています。

戦後、先生は、米国留学試験に合格されてハワイ大学で学ばれ、イギリス・ロンドンのノッティンガム大学でも研究されました。先生が、学業の道に進まれた歩みをお話ください。

また、先生は、沖縄JICAでアジアの国々から来ている留学生に沖縄の歴史や文化を講義され、現在は沖縄インターナショナルスクールでも英語で授業をされています。

世界の国々についての先生のお考えをお話ください。たとえばアメリカについて、アジアでありましたら中国や朝鮮についてのお考えをお話ください。

戦争を生き延び、学業の道に進む

戦争で家を焼かれ全てを失った私は、戦後は、マラリアに襲われました。病気になっても医者や病院にも行けず、百日ぜきで3ゕ月も学校に行けないこともありました。

食糧難で、猛毒のソテツを食べたこともありました。せっかく、沖縄戦で生き延びたのに、今度は伝染病や飢餓で死ぬかもしれないという瀬戸際で生きていました。

沖縄戦を生き延びた数多くの琉球人が「戦争後遺症」で苦しんでいました。

私の家でも、私が高校生になっても生活苦から抜け出せていませんでした。大学進学どころではなく、子どもとして、いかにして家計を助けることができるか、いかにして貧困から抜け出せるか、ということだけを考える日々を送っていました。

中学生になった時、母から「軍作業員は公務員の二倍の給料をもらっている」という事を耳にしました。

英語との出会い 苦い経験

米軍基地で働くためには英語力が必要です。しかし、英語には、戦後GIとの苦い経験がありました。

ある日、家のすぐ前にアメリカのGMCトラックに乗った米兵がやってきました。

私の家の前には小さな売店がありました。店で米軍のドライバーが、軍のトラックからガソリンを抜き出して不法に売って小遣い稼ぎをしていました。アメリカ兵たちは、それを見ても知らんふりをしていました。とにかくあちこち行くことができて嬉しかったのでしょう。

その売店で、アメリカ兵が使う英語にはじめて触れました。

アメリカ兵と友だちになろうということで、彼らの言っていることをまねしたのです。アメリカ兵は定期的に売店に来るので、このつぎ来た時に英語を使ってみようと思い、一生懸命まねをして覚えました。

そして、いよいよアメリカ兵のトラックが止まり、軍人が降りてきました。私は、軍人に彼らの言っていた言葉「ヘイ ユー ガッデム」「ヘイ ユー ガッデム」(嫌悪や怒りを表す英語表現。畜生)を繰り返しました。子どもですから、この言葉の意味など分からないのです。

私がこの言葉を言うと、軍人は「ゲラウト ヒア ボーイ」「ゲラウト ヒア ボーイ」(小僧、あっちへ行け)というわけです。私は「おお、通じた」と喜んで繰り返しました。こうしてまねをして練習しました。

次に米兵が来た時のことです。商談をしているアメリカ兵に向かって、覚えた言葉「ヘイ ユー ガッデム。ゲラウト ヒア ボーイ」と言ったら、返事が返ってきません。その代わりに、トラックに積んでいた氷の塊を私に向かって投げてきました。

私はびっくりして、殺されると思って逃げ帰りました。

私は、英語とのはじめての出会いでこのような苦い経験をしています。そこで、その後、人を傷つける悪い英語は絶対に「覚えない、考えない、話さない」の「三ない」を守ることを強く胸に誓いました。

英語スピーチ大会の代表となって

手製の単語帳で教科書の単語を学校の行き帰りに全部覚えました。そのため英語の試験は、毎回クラスで1、2番でした。高校3年生の12月に、ニューヨーク市で開催されるデイリーミラー紙主催の『世界青少年討論会琉球代表選抜テスト』に参加することができたのです。琉球代表に選ばれ旅費と小遣いが与えられました。

琉球代表として発表したいことは何かと聞かれたとき、「米軍人による事故や犯罪で琉球人は困っている。品行のよい善良な軍人を選んで琉球に送ってほしい」と主張したらマスコミは、それを公表しませんでした。

私の2年前の代表は、あなたの一番尊敬する人は誰かという質問に「イエス・キリストです」と答えて大変喜ばれたと耳にしました。

帰国の時、那覇国際空港のロビーでハワイ出身ダニエル・イノウエ米上院議員と出会い握手しました。その写真が沖縄タイムス紙に掲載されました。すると写真を見た沖縄電力社から初任給90ドルで採用したいとのオファーがありました。当時の公務員初任給の約三倍でした。私は喜んで採用の申し出にOKしました。

アメリカ留学へ

沖縄電力社への入社を決めた私を呼んで、当時通っていたキリスト教会の牧師が「仲村君、米留学試験を受けなさい」と勧めました。私は高収入の仕事が与えられたので、キッパリ断りました。大学受験の勉強もせず、大学受験の意思もないので受験しても不合格になると思っていました。

はじめからダメなことをあえてする必要はないと、内心思っていました。

それでも牧師は諦めず、試験だけでも受けるようにと何度も何度も勧めました。仕方なく、牧師の顔を立てるために受験することにしました。

そして、試験の内容を聞き出したら、「三つのことをしなさい。一つ目は、ミシガン大学の米留学試験を英語で受験すること、二つ目は、なぜ大学へ行けないのかを英語で作文すること、三つ目は、作文したものを5分以内に英語でスピーチすること」と言われました。

軍作業員になるために高校時代の2年間、米人家族のガーデンボーイとして働きながら実用英語を習得していた私は、筆記試験は85点で合格、スピーチも約15名の米軍将校審査員が最高点をつけ、約25人の応募者の中から1位に選ばれてしまいました。

沖縄電力社と米留学のどちらを選ぶか2週間悩みました。早く決断するよう迫られましたが、私は引き伸ばし作戦に出ました。黙っていれば、米留学は駄目になり、最終的には沖縄電力社に決まるだろうと考えていたからです。

その時、兄が「俺の分までアメリカで勉強してきなさい。家の家計は俺が何とかするから」と米留学を勧めてくれました。

様々な国、民族から学んだこと

このように、牧師や兄のおかげで、私には、アメリカ・イギリス・オーストラリアで延べ九年半学術研究をする機会が与えられました。

最初は、米国本土の大学に入学を希望していたのですが、最終的には、ハワイ大学に入学しました。

当時、ハワイ大学には、世界各国からの留学生がいました。中国や朝鮮(おそらく韓国)の学生が、過去に日本が中国や朝鮮にたいしておこなってきた酷いことを、沖縄から来た私に話してくれました。それは私が、沖縄戦で二歳の弟が食べ物がなく、やせ細って餓死したことを話したからかもしれません。

ハワイ大学に入学したことでインドやフィリピンなどから来た留学生の話す英語を理解することができました。

大学在職中には、50ゕ国以上に旅をすることもできました。職場も、沖縄大学・琉球大学・在沖縄メリーランド大学・JICA・語学センター・宜野湾セミナーハウス等で、英語や日本語・日米比較文化・琉球歴史文化等を講義する機会が与えられました。そのおかげで、黒人・白人・黄色人種・その中間色などあらゆる民族と出会うチャンスがあり、肌の色の違い・民族の違い・政治体制の違い・文化や言語の違い等を体験することができました。

これらの出来事を通して学んだことは、国家間にどんな違いがあっても、変わらない共通点があることです。それは、どんな国の人々にも家族があり、家族の皆が平和で幸せに安心して暮らせるように願いながら毎日働いているという事実です。

百聞は一見に如かず

多くの国を訪問した体験から、実際にその国に行き、自分の目で見て、感じること、学ぶことは大切であると思います。

私は沖縄大学に勤めていたころ、朝鮮民主主義人民共和国を三回訪問しました。帰国後、ある新聞社の支局長から、朝鮮訪問について話を聞きたいとの申し入れがありました。

私は、朝鮮で見てきたこと、聞いたことをそのまま話しました。すると、新聞社の人は「先生は、朝鮮について良いことばかり言っているが、朝鮮は、そのような国ではない。酷い国だ」と盛んに主張してきたのです。私が、「あなたは朝鮮についていろいろと悪く言っていますが、行ったことがありますか」と尋ねました。彼は、行ったことがないとのことでした。

日本では、朝鮮について政府やマスコミにより、デマ宣伝が長年おこなわれており、人々のなかに、朝鮮について誤った見方が広まってしまっています。「百聞は一見に如かず」です。悪い宣伝に惑わされず、多くの人が朝鮮を訪問することはよいことだと思います。私は朝鮮を訪れる度に、朝鮮が発展してきていることを目の当たりにしました。朝鮮の政治制度は人々が幸せに働き、暮らせるような制度になっています。

全ての国には自主権がある

全ての国は、大小に関係なく他国に隷属せず独立し、自己決定権を使って自主自立しなければなりません。自由・平和の権利、自分の運命を決定する権利が保障されなければなりません。

自分の幸福のために他人の幸福を壊してはなりません。自分が豊かになるために他人の豊かさを壊してはなりません。自分の自由のために他人の自由を壊してはなりません。自分の平和のために他人の平和を壊してはなりません。

しかし、現在は、自由競争の原理という名の下で、力のあるものが弱者の民主主義や人権や自由権を踏みにじって違法支配が横行しています。

これからでも遅くありません。全ての国々は弱者から奪った物を返還する道義的義務と責任があります。例えば、米国は、アメリカ先住民から奪った領土の一部を先住民族に返還しなければなりません。公式に謝罪して、先住民族が独立・自立していけるような環境を与えるべきです。

日本も、1879年に武力で違法に奪った琉球国の独立と自己決定権を無条件に返還すべきです。日本は琉球の母国でも祖国でも内地でもありません。もともとお互いに独立した国家であることを認識し尊重すべきです。

この他にも世界が抱えている諸問題は、山積し、くすぶり続けています。時間をかけ、平和的に解決していくことが求められています。

沖縄は1972年に返還されましたが、米軍関係の事件や事故が多発しています。

ベトナム爆撃に向かっていたB52核戦略爆撃機の嘉手納基地への墜落、CHD53型大型ヘリコプターの沖縄国際大学敷地内への墜落、ヘリパットが強行建設された東村高江の民間農地へのCHD53大型ヘリコプターの墜落炎上等枚挙にいとまがありません。

最近では、名護市久志の安部海岸にオスプレイ輸送機が墜落しています。

米軍人軍属による沖縄の女性への凶悪な暴行、殺人事件もこれまで頻発しその都度そのたびに人々は結集して非道を許さない県民大会を開催してきました。

これらの事件や事故の本質的原因は、日本がアメリカに政治的軍事的に従属していることに起因していると考えます。米軍基地について、先生のお考えをお話ください。

琉球列島の軍事基地要塞化について

琉球王国時代の琉球には軍事基地も軍隊もありませんでした。

沖縄国際大学ヘリコプター墜落現場
大学1号館への防水消化作業

違法な「廃琉置県」後、日本は、富国強兵の国策下でアジア太平洋に領土を拡張していきました。

1940年前後には、琉球列島に軍事基地を建設し、沖縄本島・伊江島・宮古島等の農地に飛行場を10ゕ所以上作りました。

米国とその同盟軍は、1945年の沖縄戦で旧日本軍基地を奪い取り整理統合し、朝鮮戦争中、新規に土地強制収容し軍事基地を拡大していきました。

それでも日本復帰前の在琉球米軍基地は在日米軍基地全体の11%でしたが、復帰後、在日米海兵隊が日本人の強い反対に直面して沖縄に引っ越してきて、2020年には在日全米軍の70%以上が琉球に集中し、大きな問題を引き起こしています。

米兵による琉球婦女子強姦・殺人事件が報告されただけでも約6000件にのぼっています。婦人問題活動家の高里鈴代代表は、泣き寝入りした数を含めると数十倍になると言っております。

墜落したヘリコプターの残骸

1956年6月12日に、読谷村の我が家の庭で遊んでいた11歳の女の子の上に、ヘリコプターから吊るされていたトレーラーが落下し、女の子が即死するという事件がありました。

3年後の1959年6月30日には、石川の宮森小学校に、嘉手納飛行場を飛び立ったF―100ジェット戦闘機が墜落して、子どもたちを含め17人が死亡し、212人が重軽傷を負いました。

2004年8月13日には、普天間基地所属のCHD53大型ヘリコプターが沖縄国際大キャンパス内に墜落し炎上しました。

米軍がらみの全ての事件事故の調査には日米地位協定によって沖縄警察は排除され、米軍主体の事件事故処理がなされています。

つまり、明治時代のような治外法権が米軍に保障されているのです。

近隣の民家に落ちたローターアメリカ兵と沖縄の子ども
米兵が周囲に立っている
※写真は、「普天間爆音訴訟団」提供

戦後日本の文民統制政治は形だけで、実質的には、軍事優先政治・日米安保条約優先の政治が行われています。

ニセ平和憲法の基盤となっている第三条も死文化してしまいました。

朝鮮戦争中も、ベトナム戦争中も、嘉手納基地から毎日、爆撃機が往復して爆弾を投下しました。

その時、ベトナム国民は沖縄を「悪魔の島」と呼び、B52を「死の鳥」と呼んでいたそうです。

琉球人も隣国破壊・隣人殺人の戦争に加担したことへの責任を感じなければなりません。

最近では「未亡人の飛行機」とあだ名がついているオスプレイ輸送機や軍用ヘリコプターが沖縄北部で墜落事故を起こしています。

そこでも原因調査のための沖縄の警察は排除され続けています。

これらは、自ら米国にペコペコし隷従を続けている主体性・自主性のない日本人、そして日本社会の大国に追従・隷従する国民性が原因だと考えられます。

先生はスイスのジュネーブで開催された国連人権理事会に2回参加し、沖縄の問題について発言してきました。先生の思いをお話ください。

ジュネーブ国連人権理事会での発言

沖縄の歴史を振り返ると、沖縄の自己決定権がないがしろにされ、日本、アメリカにより奪われてきたことが多くあります。

1609年の薩摩の違法武力侵略により、琉球国が薩摩の植民地になり、琉球民族の人権は270年間も著しく侵害されてきました。

また、1879年にも違法琉球国乗っ取り事件が起こり、琉球国王や国民の反対にもかかわらず、武力で琉球国の独立が奪われました。

1945年の沖縄戦では、戦争が終わっても米軍は引き上げず、住民の許可を得ずに広大な土地・海・空の使用権を奪い取り、76年以上も住民の独立・自己決定権・自由・民主主義・人権などを侵害し続けています。

在日米軍施設の70%以上を国土の一%以下の面積(琉球諸島)に集中させ、米軍基地から派生する婦女子強姦・殺人事件・事故・環境汚染・米軍用機の爆音被害が起きています。

直近では、沖縄の有権者の70%以上が反対している辺野古新米軍基地建設問題なども大きな問題となっています。

私は、これらの諸問題について、ジュネーブで訴えてきました。

先生は、沖縄大学をはじめ、長く教鞭をとってこられました。学生や青年に話してきたこと、現在伝えたいことについてお話ください。

自主的に考え行動し
平和と信頼を前提に生きる

1945年の日本の敗戦まで、英語は敵国「鬼畜米英」の言葉として、公共の場では使用が禁止され、英語教育等も禁止されました。敗戦と共に英語は中高大で必須科目になりました。

沖縄戦では慶良間諸島や沖縄本島の十数ゕ所で集団自殺が起こりました。

新聞では、自決と言っていますが、自決ではありません。自殺です。自決というのは、軍人たちが責任をとって自分で死ぬことを自決と言います。

一般国民には、そういう責任はありません。国には責任があります。ですから、民衆に責任を押し付けて、集団自決と言い張っていますが、これは言葉の誤りであり正さなければなりません。集団自死、または集団自殺です。自決ではありません。

読谷村のチビチリガマでは避難していた村民たちが大勢、集団自殺しました。

近くの、もう一つのガマにも多くの村民が避難していました。そこには英語の話せるハワイ帰りの二人の兄弟がいて、上陸してきた米軍と交渉し、一人の死者も出さず全員の命が助かりました。

外国語を習得することは異文化理解を深め、人生を豊かにする助けとなります。

在職中は、学生や若者たちに漢字をはじめ、仏教・道教・儒教・祖先崇拝等を伝えてくれた中国・朝鮮に感謝し、ローマ字・キリスト教・科学技術等を伝えてくれた欧米諸国に感謝の心を忘れないように話してきました。

隣国のお陰で私達の文化も豊かになったのですから。

また、個人的には、三K離れの学生たちに「3Kに自ら進んで向き合う人間になりなさい」と言い続けてきました。

3Kとは、「きつい、きたない、危険」な仕事のことです。私は、今の自分があるのは両親や祖父母の3Kの仕事のお陰だと学生たちに説いてきました。3Kを軽視し、3Kから離れようとする行為は、人生そのものを否定することなのです。3Kを大事にし、実行することで家庭も社会も国も成り立っているのだと思います。

平和を保つためには

国際問題の解決する手段として武力を使わず、平和的対話・平和外交で、自主的・主体的に解決する努力をしてほしいと願っています。

軍事同盟によって平和が保たれるというのは神話にすぎないからです。

軍事同盟は、民主主義の破壊・人権侵害・相互不信・恒常的不安定と緊張状態を生み出す持続不可能な負の条約です。

「大国」の言いなりにならず、すべての国々と親善・友好・平和の関係を構築してお互いに信頼できる国際関係を築いていくことです。

われわれ琉球民族の先祖たちは、そのような平和外交を「イチャリバチョーデー」(出会えばきょうだい)、「ヌチドゥ宝」(命こそ宝)、「万国津梁」(ばんこくしんりょう・世界の架け橋と言う意味・首里城の鐘に刻まれている銘文)という尊い精神文化を礎にして行うことを、私たちにバトンタッチしてくれました。

いつの日にか、違法に奪われた琉球独立国を復帰させ、世界連邦政府「World Federation Government」を誘致し、琉球国を世界平和の礎(Keystone of World Peace)の拠点にしてほしいと願っています。

そのためにも世界共通語となりつつある英語を学校教育の手段の一つとし、日常生活のコミュニケーションの手段の一つとして充実していくことを願っています。

また、琉球語・日本語・英語等を基盤とした多言語社会の仲間入りをと考えます。シンガポールやフィリピン・インド等の国々もそうなりつつあります。

日本の同化政策教育の下で絶滅の危機に瀕している琉球諸語を学校教育の正規科目として琉球歴史と共に、ぜひ復活してほしいと切に願うものです。

コロナ禍を乗り越えるために

昨年の暮から人類は、第三次世界大戦に突入したようなものと私は考えています。

新型コロナウイルス感染による死者数は、第一次・第二次世界大戦の死者の合計を上回っているそうです。

目に見えない敵は、武力を使わないまま、原爆を持っている人類の命を次々に奪い続けています。

私たちは、今こそお互いの殺し合いを止めて、お互い命を大事にしていく愛の精神、自主的に考えて行動できる人間愛の力を信じて、「イチャリバチョーデー」「ヌチドゥ宝」「万国津梁」の精神を広めていく教育をすべきです。

セントヘレナ島に流刑になったナポレオンが武器のない琉球国が存在することを聞いて驚き、「武器がなければ、どうして戦争ができるのか?」と聞き返したそうです。

ベトナム戦争で負けたアメリカの軍隊は今なお、「Itʼs better to win the arms race than to lose the war」(戦争で負けるより軍拡競争で勝つ方がよい)と毎日のように米軍ラジオTVで主張し続けています。

欧米の指導者たちは戦争を前提にして生きているようです。

信頼と平和を前提にした生き方こそ、持続可能であり、これからの世界を支えていくものであるという考えを、時間をかけて共に構築していかねばなりません。

新型コロナ禍の世界は、今こそ軍拡競争や戦争の歴史から決別して、平和志向の政治・経済・教育にパラダイム転換を図るべきです。

琉球国の尚真王は1478年に武器を廃止し文民統制政治を行い、平和で豊かな長寿国を樹立することに成功しました。これは国連憲章ができる467年も前のことでした。

軍拡競争や戦争は、文明を破壊し尊い人命を奪う持続不可能で極めて危険で時代遅れな政策です。

人類の英知を結集して持続可能な問題解決方法を模索し探求し共有していかねばなりません。

自主の道 夏号2021.5.1 より転載