人間としての尊厳を守り、今も闘い続ける
栗生楽泉園入所者自治会会長 藤田 三四郎

国立療養所栗生楽泉園は1932年に誕生しました。
 群馬は温泉が多いことで知られています。「草津の温泉は、らい病に効く」と言われていたこともあり、ハンセン病患者の人々が多く集まり湯之沢という集落ができていました。そこには当時一番多い時で800人くらいのハンセン病患者の方たちが自立した生活をしながら治療をしていました。
 第一号の患者さんは雪のなかを湯之沢から下地区の「栗の湯」に背負われて来たそうです。
 草津温泉にはお客さんがたくさん来るので、ハンセン病の患者がたくさんいると良くないということで、栗生楽泉園ができ、湯之沢からそこに移転させられたという経緯がありました。
 1930年から1931年にかけて、「無らい県運動」が実施されたこともあり全国からも患者さんがたくさん送られてきました。
 1944年には入所者は1325人、私が入った1945年には1315人でした。しかし、収容されても亡くなる人も多く、この年には138人が亡くなっています。
 当時は職員が少なく、患者のなかで軽症な人が重症の患者を看病したり診療の介助、看護のすべてに関与したばかりでなく、食事の運搬、配膳、掃除、洗濯、まき割り、炭焼き、炭運び、火葬など、療養生活のすべてが入所者の手でおこなわれていました。

人権無視に対して闘う

 自治会の活動には園の患者、入所者の人権と生活を守るために常に先頭になって血みどろの闘いをおこなってきた歴史が込められています。
 当時は、ハンセン病患者はまったく人権も無視されており、入所者には、入所心得十項目が強いられていました。
 分館長(当時加島正利)の指示により園内の作業をさせられるようになりました。園内には監禁所があり、1938年には特別病室(重監房)も設置されていました。
 1947年になると、入所者に選挙権が与えられ、外から人が入るようになり、「入所者が奉仕作業をするのはおかしい」と指摘を受けます。また その頃、古見園長を始め霜崎事務官、加島分館長、炊事主任などによる入所者の食糧横領による不正会計問題が浮上しました。更に、特別病室については新聞紙上に大きくとりあげられる問題となりました。
 この年の8月15日、中央公会堂にて当園初の患者大会が開催され、人権闘争が始まったのです。 自治会代表は国立療養所多磨全生園に支援要請し厚生省に陳情しました。
 この行動によって、不正会計問題を起こした園長含む五名は懲戒免職になりました。
 1938年から1946年まで設置されていた特別病室は急ぎ撤去される事になりました。 こうして人権闘争が幕をあけました。

「らい予防法」改正闘争運動

 1923年、第3回国際らい会議においては、「強制隔離する必要はない」すなわち「伝染力が微弱である」ということが国際的に発表されました。
 しかし、これに対して、長島愛生園の光田健輔園長、多磨全生園の林芳信園長、菊池恵楓園の宮崎松記園長たちが反対しました。
 国会の証言に呼ばれて、光田健輔は「私の目の玉が黒いうちは予防法改正はまかりならん」と述べています。宮崎松記は「らい患者の家族で身ごもっているものは堕胎しなさい。男子は全部パイプカット。そうすれば退院できる」とこんなことを言ったのです。
 その結果予防法の改正は実現せず、日本政府は隔離政策をなくそうとしませんでした。
 そのためハンセン病の患者たちはその後もずっと闘争することになりました。
 1948年にはハンセン病の治療薬を要求するプロミン獲得運動が起こりました。この闘いに勝利し、1951年には全員の患者に投与されるようになりました。
 1950年に、全国国立らい療養所患者協議会(全らい患協)が発足し、その年かららい予防法改正闘争運動が始まりました。
 この運動は1996年4月1日の「らい予防法廃止に関する法律」の施行によって勝利しました。
 また、2001年5月11日には国の責任を訴えたハンセン病国家賠償訴訟において全面勝利し、国を断罪することができました。
 その後、四つの確認事項(最後の一人になるまで国が面倒を見る、再発防止の為の真相解明、賠償金の支給、啓発活動)にサインし、真相解明の活動が始められました。
 当園では火葬場の問題、炭背負いの問題、堕胎児の問題などがありましたが一つひとつ解決してきました。
 この運動の過程で、病棟看護の職員への切り替え、不自由者棟患者看護の職員化が始まりました。また、国民年金の支給や処遇の改善がおこなわれていきました。
 自治会として、園に対してさまざまな要求をおこなっていくなかで、設備施設がどんどん良くなっていきました。
 これらはみな粘り強い闘いの歴史であったといえます。
 2009年には特別病室、重監房問題を後世に永久に残すという構想で重監房資料館を建てるための調査が始まりました。

重監房を永久に残す

発掘された重監房跡にたてられた碑

 重監房資料館は2014年4月30日に開館し、今年6月25日には入館者一万人を達成しました。また、重監房跡地については、2015年4月30日に整備が済み一般公開されています。
 重監房資料館はこの地を永久に残すために絶対作ろうと考えて実現させたものです。
 重監房資料館の目的は、重監房(特別病室)とハンセン病問題に関する資料の収集・保存と、調査・研究の成果を発表することにより、命の大切さを学び広くハンセン病問題への理解を促し、差別と偏見の解消を目指すことにあります。
 重監房棟の存在は、ハンセン病患者が厳しい隔離政策におかれていたことを後世に伝える負の歴史的遺産です。人間の尊厳、人権について考える「人権の里」の中心になるのが、重監房資料館です。
 重監房は国が「不穏分子を収容し、園内秩序を維持すること」を目指して、全国のハンセン病療養所で唯一の懲戒検束施設として1938年栗生楽泉園(草津町)に設置しました。
 いわれなき罪を着せられた患者が全国各地から収容され、患者たちの運動によって1947年に閉鎖されました。冬季には気温が氷点下20度近くまで冷え込む施設は「日本のアウシュビッツ」とも言われ、「草津送り」として患者から恐れられてきました。
 重監房には待遇に不満を訴えるなどして不当に監禁、虐待された入所者は約10年間で89人、そのうちの23人が亡くなりました。「大半は冬に凍え死んだ。遺体は布団に凍り付き、はがすのも大変だった」と証言されています。
 2013年の発掘調査では開園50周年の記念で石碑を建てた重監房跡地から、お膳・地下足袋、・下駄・箸・鉛筆・牛乳瓶・眼鏡・南京錠・梅干しの種など色々な物が出てきました。
 これまでの研究や聞き取りなどから、建屋は高さ約4メートルのコンクリート塀に囲まれ、4畳半ほどの独房が対になって並んで8部屋あり、各部屋に逃走防止用の南京錠が設置されていたことが想定されてきました。
 また、新たな調査で、建屋と塀は木骨モルタル塗り、独房はトイレを含めて5畳半だったことが判明しました。モルタル塀の一部(高さ2.7メートル)や、それぞれ違う場所に取り付けたとみられる大きさの違う五つの南京錠などの遺物も見つかりました。
 調査では隔離の構造が明らかになりました。
 調査チーム主任の渋江芳浩さんは「南京錠は居室、通路、監房入り口など、複数カ所に設置されていたことが分かった。決して逃げられないという象徴的な意味もあったのだろう」と分析しています。
 今回、発掘し、出土した遺物は2014年春に開館した重監房資料館に展示されています。
 私は、建設現場を訪れた時に「われわれが亡くなった後も、人権について学べる貴重な資料館になってほしい。私たちの生きた証が詰まっているからね」と言いました。
 重監房資料館は私たちの生きた証なのです。

自らの歴史と証言集を作成

栗生楽泉園入所者証言集(上、中、下巻)

 私は今年、『夕菅の祈り―偏見と差別解消の種を蒔く―藤田三四郎』という本を出しました。400頁あります。2000部以上印刷しました。
 これまでは、『風雪の紋』、『高原』などに原稿を載せています。本も何冊も発行しています。しかし、現在、89歳の高齢となり、目も段々と見えなくなっていくので、「見えなくなれば読むことも書くこともできなくなる」という不安がありました。
 それで今回、「自分の作品を本にまとめて残そう、自身の証言や闘いの記録を残して、後世に伝えよう」と考えました。89歳の人生の内70年をこの栗生楽泉園で生きてきました。皆さんの参考になればと思っています。

栗生楽泉園入所者証言集を紹介する藤田氏(右)

また、ここに『栗生楽泉園入所者証言集』が三冊あります。
 この証言集は、自治会がまとめました。ハンセン病訴訟の勝訴後の私たちが置かれた現実は、どんどん高齢化が進み、死亡率も高くなってきています。このままいくと、私たちはどうして、こういうところに入れられたのか、それをきちんと記録として残すことなく死んでいってしまうと考えました。また、今後、地域の方たちと共存していくためにも、自分たちのことを深く知って頂きたいと考えました。
 それで、群馬県に申し入れをおこない、予算化の実現にこぎつけました。
 資料に関しては、以前、国が2001年に「ハンセン病に関する検証会議」が設置されたとき、全国の入所者や退所者を対象として被害の実態調査をおこなっていたことを思い出しました。その証言の録音テープを厚生省から返してもらうことにしました。自分の証言は自身のものであるという埼玉大学教養学部の福岡安則教授の助言を受けて、厚生省にかけあいました。住民票が必要だとか本人確認が必要だとか様々なことを言われました何とか手に入れ、その記録テープをおこして、この証言集を作成しました。苦労して生きて闘った、私たちの闘いの歴史がまさに刻まれています。
 ここには多くの生の証言が載っており、私はこの証言集を読んでみて大変感動しました。多くの方々に読んで頂きたいと思います。

ハンセン病の発病

 私は、1926年に茨城県で生まれました。14歳で少年航空兵を夢見て陸軍に入隊しました。陸軍飛行学校を経て、飛行機の整備、試運転をして特攻隊に渡すという仕事をしていました。最終的には宇都宮の航空駐屯地(中島製作所)に移りました。その頃に発病しました。
 駐屯地で診察を受けても病名がわからず宇都宮の陸軍病院に回され検査入院をしました。
 その時、草津から派遣されていた、長谷川と言う軍医に診察を受け、「貴様は伝染病だから奥の四畳半の小さな部屋にぶちこむ」と言われました。私は五病棟の便所のとなりの金網のある部屋に隔離されました。網戸越しに軍医のインターンが「あの患者はレプラ患者だ(恐ろしい伝染病)」と言っていました。レプラとは何かと思って聞いても教えてもらえませんでした。
 その後1945年7月7日、19歳の時に宇都宮陸軍病院から栗生楽泉園に護送収容されました。その時のことを後から読むと、「藤田三四郎は兵役免除する」と書いてありました。
 その当時、法定十種伝染病と指定された病気があり、らい病は入っていませんでした。法定十種伝染病であれば兵役免除にはなりませんでした。部隊のなかで隔離していれば、外出、外泊禁止になるくらいでした。それで、それ以外の病気かなと思いました。

生涯、病と共に闘う決意を固める

 私は兵隊に出る時に家族と行った墓参りを思い出しました。
 兵隊に行くときには先祖代々の墓地に、家族全員でお参りに行きます。その時に、髪の毛と爪を切って油紙に包んで墓地に納めるわけです。父は「お前は子どもだから、神社で出征兵士を送る皆さんに挨拶ができないと困るからこれを暗記しなさい」と言って便箋に3枚ぐらい書いてくれました。母からは「お前は他人のために命を捨てるのは宜しい。犬死は絶対だめだ」と3回言われていました。
 私はその時、これが最後だ、二度とこの地は踏めないのだと考えたら涙がボロボロと出てきました。まだ幼かったのです。
 おかしな病気になり隔離病棟に入れられたとき、いっそのこと首でも吊って死んでしまおうと思いました。そのときに母が夢に出てきました。母は「犬死は絶対にだめだ」と何度も言いながら消えていきました。その母の言葉を思い出し、はっとしたのです。そして、「生涯病気と共に闘う」という決心をしました。その時があって今があると思います。

1945年の栗生楽泉園での衝撃の体験

 宇都宮の陸軍病院からトラックに乗せられて栗生楽泉園に護送されました。
 衛生兵が二人ついており、私の降りた後を足跡さえも、噴霧器を使ってガチャガチャと消毒しました。着せられた白衣には十字架が書いてあったので、群衆がみんな注目していました。
 途中からは電車で運ばれました。最後尾の車両に乗せられ、車両の横には「癩(らい)患者護送中」と書いてありました。そこではじめて自分が「らい病」とわかったのです。勿論その時はらい病の知識はありませんでした。
 途中の小山駅、高崎駅で、アメリカのグラマン戦闘機が飛んできて2回機銃掃射にあいました。もうこれで最後かと思いましたが衛生兵が「避難してくれ」と言って避難したので助かりました。2回命拾いをしたので、腹がすいてきて、開きなおって、「弁当あったら、弁当よこせ」と言った事を鮮明に覚えています。
 軽井沢まできたら夜の7時頃になっていました。駅で降りたら、ホームの割れ目のなかに月見草の花が一輪か二輪咲いていました。これを見ながら、「希望の象徴の色だな」としみじみ思って見ていました。そこから今度は草津までちんちん電車に乗ったら「癩(らい)患者護送」とまた書いてありました。草津に着くと衛生兵の二人は私を置いて官舎からトラックに乗って帰ってしまいました。
 大阪から来たという縞の着物を着た男性が、「あなたは陸軍病院から来た人ですか」と聞いてきました。迎えに来たその人と一緒に7月7日、月を見ながら栗生楽泉園に入っていきました。
 午後9時に旧乗鞍4号室に入居しましたが、同室の5名は床についており、私の布団も敷いてありました。床に入るとすぐ、ノミ、シラミ、南京虫に責められました。ひどいもので、夜中に起きては外に出て白衣を脱いで払って、また床に入るとまた責めてくる。それを繰り返していました。
 布団も、後で聞くと、死んだ人の染みだらけの布団をうち直して使っていました。
 翌朝、午前4時半にそっと起き、外に出て散歩をしました。道幅が3メートル程の畑道で、左右には大豆の花、ジャガイモの花、南瓜の花が咲き、土手にはマーガレットの白い花が咲き誇っていました。歩いて行くと空気もおいしく感じられました。私は、病気の告知から30日くらい隔離病棟に入れられ、一歩も外には出られなかったので、この地は素晴らしい所だと思いました。
 朝の草刈をしている方に「おはようございます」と声をかけると返事はなく、近づいてみると病気の重い方であったので驚きました。また歩いて行くと同様なことが起き、私は恐ろしくなって足が前に出ませんでした。しばらくすると手に鎌を縛り付けた方が来ました。挨拶するとその方は「お前は白衣を着てるから兵隊さんか。病気になって草津へ送られてかわいそうだな」と言われました。
 そのあと舎に戻り、朝食をとりましたが、陸軍病院のご飯と比べて麦の多い食事はのどを通りませんでした。療養所とは名ばかりだと思いました。
 その日は入所の手続きをするために事務室に行ったら、「名前を変えなさい。お前は死んだら解剖します」と言われました。
 諸手続きが済んだ後、裸にされて、診察を受けました。「あなたは、三年も治療をすれば家に帰れるからみっちり治療しなさい」と言われました。
 私が入所した1945年当時は1315人が入所していました。職員は113人でした。2013年5月1日の入所者は108人、職員は211人となっています。
 2015年10月には入所者は88人になりました。この数字をみても当時の施設運営はほとんど軽症患者がおこなっていたことがわかります。
 職員で世話係が一人で80人くらい受け持ちました。その人が乗鞍、穂高、立山、朝日の四棟の世話係をやっていました。世話係は全部で24人位いました。

 

義務看護を体験して立ち直る

 1週間後、不自由舎棟の世話係が私の所に来て、「新患いるか?」と言いました。
 私は新患とは何かわからないので黙っていたらまた怒鳴るので「私には名前があります。新患とは何事だ、藤田三四郎です」と言いました。
 すると「あまり、語気を強めると冷たい所へ送られるからそんなこと言わない方がいい。明日から不自由舎棟の義務看護をお願いします」と言われました。
 生駒舎1号という所へ行かされました。不自由舎では6名の方のお世話を1週間おこないました。皆重症のかたで、全盲で気管切開された方が1名、全盲の方が2名いました。
 何もわからない私にとってそれは大変な思いでした。頭から、耳から、鼻から、うじ虫が山ほど出ました。それをピンセットではさんで全部取り去って洗い、軟膏を塗ってあげました。軟膏も、縞の着物の良い所だけを切って油を塗ります。それを板に延ばして、はさみで切って、顔に張り付けました。そういうことを患者同士でやっていました。1週間、一生懸命面倒見て、「やがては私もこのようになるのだ」ということを心に決めまし。そして私は皆さんに「誠にありがとうございました」と挨拶しました。
 すると、6名の方から、古びたような手ぬぐい1本をもらい、「三四郎さん、良くお世話をしてくれました。本当にありがとう」とお礼を言われました。
 私はこの義務看護のおかげで食事も食べられるようになり、それから、入浴することもできるようになりました。当時の風呂場は男女混浴で上・下地区に2か所しかなくて、芋洗いと同様でした。1315人もいたので朝から晩までかかりました。現在はたくさんの浴室があり、いつでも入ることができます。
 そこから私は立ち直ることができ、ここで生きていこうと思いました。私はその後独身舎の世話係を担うようになりました。

結婚し、里子を育てる

 その後自治会に関わるようになり、35年間今日までやっています。
 入所した翌年1946年には婿に入りました。30歳くらいになったら死んでいくのだから、せめて普通の夫婦生活をしてみたいと思い、妻と一緒になりました。
妻とは58年間一緒に暮らしました。ふたりで、全国いろんな所にも行きました。
 親が働いている地域の子どもたちを昼間だけ預かって面倒をみたり、里子も何人か育てたりしました。
 1949年にはキリスト教に入信し現在に至っています。自治会に入る前は、十数年間、教会の責任者をしていました。
 1977年からは自治会の会長をやっています。
 私の人生は神の恵みであり、これは自分の使命だと思っています。

平和な世界を願う

園内に設置された納骨堂

 平和は永久に続いていかないと困るわけです。このためには主権者一人ひとりが責任をもって、何人にも左右されずに、政治に参加することが大事です。
 私は平和とは、つまり平(たいら)な和を作る事であると思っています。恒久平和、憲法9条は世界の宝だと考えています。
 戦後70年間は、国内では戦争がなかったわけです。
 しかし、明治までは日本人同士で殺し合いをしていました。明治になって初めて世界相手に戦争を始めました。
 私の母は、私が小学校6年生の時に、「人間は火によって生かされ、火によって滅びる」ということを言っていました。
 母が、「お前はなんで生きているんだ」と聞くので、「お父さん、お母さんが一生懸命働いてご飯を作って食べてるから生きているんだ」と答えると。「もうひとつあるだろう」と言います。また考えて「生ものは食わないから煮炊きして火によって生かされています」とこう答えました。母親は、「良くできました。人間は火によって生かされ、火によって滅びますよ」ということを言いました。
 私は人生で母にほめられたのはその一回だけでした。
 日本は70年前、原爆の火によって滅びてそれから立ち上がりました。
いま、本当に貧しい人、苦しい貧乏な人がいっぱいいます。
 オスプレイは1機約400億円です。政府はそういうものを十数機も買うと言っています。アメリカに従属しながらアメリカと競争して戦争の準備をしています。武器は皆、使わなくて投げ捨てるだけなのでもったいないです。みんな仲良く手をつないで、永遠の火をつくっていくことが大切です。
 今日も高崎の聖公会の人が来たので「日本人はやっぱり、平和という字は、平の和なんだ。一人ひとりが主権者であり、国をつくる力があるんだから、一人ひとり団結して、何人にも左右されずに声を上げていくことが大事だ」と講演をしました。ここの職員の人たちにも政治の話をしています。

地域の新しい世代の教育の場として

 群馬県内の小学校からは、5年生になると資料館を見学にくるようになりました。楽泉園が、次世代の人権、命の大切さを伝える場になればいいと思っています。
自治会では、2012年の夏から、福島の子どもたちを受け入れています。
 放射能で被ばくした子供たちが少しの間でも安心して、綺麗な空気と食べ物を食べて元気になってほしいという思いで子どもたちを招き交流をおこないました。保護者のかたも参加していただき、貴重な体験をしました。
 また、大学生、教育学部の学生たちが毎年来ています。群馬大学の学生や、埼玉大学の教育学部の学生が来ています。
 埼玉大学の教育学部の学生達は、草津に通ってこられ、私が10年間、障がい児教育の講義をおこなっていました。その学生たちが、いまは結婚して、何人かは訪ねてきます。埼玉大学名誉教授(障害児教育学)の清水寛先生が栗生楽泉園のハンセン病の人から学べと教育されたのです。
 このように若い世代のかたが関心を持って訪ねてこられることをたいへん嬉しく思います。

栗生楽泉園を人権の里として

 私たち入所者は、最後まで栗生楽泉園で生活していきたいと望んでいます。入所者の最後の一人まで、国が面倒をみるという約束を果たすようにし、あくまでも国立の療養所として残すべきであると考えています。
 将来的には、栗生楽泉園を「人権の里」、多磨全生園(東京都東村山市)を「人権の森」としていこうとしています。
 草津には温泉があり、ここの湯は皮膚に効くので、施設を皮膚病の患者や一般の障害者にも開放して、栗生楽泉園の職員が、患者の面倒や施設の管理をすると良いと考えています。
 将来的には、この栗生楽泉園が草津の町のなかの憩いの場所として活かされ、また、この地で地域の方々と一緒に仲良く生き、共存共栄する場として存続し続けることを願っています。

自主の道 第121号より抜粋